客離れの転機になった60秒チャレンジ、店員は食品をゴミのように投げつけた。

引用:http://articleimage.nicoblomaga.jp/image/16/2012/b/a/baca2de39390b1b7e9a5d47f3e4f65a6b98976c61356516016.jpg
原田マジックで赤字の日本マクドナルドを建て直し、カリスマ経営者と言われた原田泳幸氏。
経営手法はアメリカそのもので、全てを数字だけで判断する。
人間の価値や経験を一切認めず、バイトは「時給700円」の人間でしかない。
現場には熟練した従業員が一人も居なくなり、全員が素人になった。
結局これがマック崩壊の原因を作った。
低価格と大量化
原田泳幸(えいこう)氏は2004年2月、アメリカ本社が送り込んで来た。
原田以前は日本マクドナルドの創業者である藤田 田(ふじた でん)氏がずっと指揮を執っていたが、7年連続売り上げマイナス、2年連続最終赤字に喘いでいた。
原田の社長就任まで日本のマクドナルドは、米国とは違う独自のスタイルだったが、この時から同じになった。
例えば長い間書かれていた「スマイル0円」は廃止された。
それまで日本の食品業界は無愛想なオッサンが怒ったような顔で対応するのが当たり前で、「スマイル0円」は非常に新しい印象を与えた。
日本マクドナルドの象徴と言える一言だった。
原田はアップル日本法人社長を勤めていたが、まだiPhoneが発売される3年前で、アップルはやっとiPodのヒットで倒産の危機を逃れたところだった。
食品業界の経験は皆無でまったくの素人だった。
アップルが経営危機に瀕した頃、日本での売り上げは会社存続のために重要で、アップル本社の副社長も勤めていた。
原田が社長として就任して最初に社員に演説したとき、バカにしきった態度で英語でスピーチし「従わない奴は出て行けと言ったそうである。
ここから日本マクドナルドの回復と没落が準備された。
原田は食品業界に無知だったので、数字だけを追いかけた。
経験は無駄であり余計なコストなので、ベテラン従業員を解雇し最低賃金のバイトに置き換えた。
経験や熟練は「無駄」
創業以来、バイトから雇って一人前の店長に育て、やがてFCオーナーとして独立する制度が存在した。
これも無駄なコストなので全廃し、とにかく数字として支出が多いものは全てカットした。
これはアメリカでは普通の考え方で、英語には人材という単語も無い。
丁稚が番頭になり、社長になりオーナーになった会社は日本にいくつかあるが、アメリカに人言わせると、人を育てるのは無駄であり、有能な人を雇えば良い。
丁稚制度を廃止したマクドナルドは、急激にFCを増やした。
その実体は悪名高い『名ばかり店長』で、バイトとして最低賃金程度を支払って早朝から深夜まで働かせた。
名ばかり店長に忠誠心も責任感も皆無で、一般のバイトも
そうなっていった。
それでも原田社長就任後の数年間は、前社長が育てた人材が数多くいたので、コストカットのプラス面だけが出た。
業績が急速に回復して赤字決算は翌年に黒字になった。
浮いたコストで商品の値下げを断行して、100円メニューを増やしたところ評判となり、どの店も客で溢れた。
注文を受けてから作る「メイド・フォー・ユー」によって廃棄ロスが減り、出来立てにしたのも受けた。
だがこれは従業員の作業量を極限まで増やし、後に破綻につながる。
次いで原田社長が始めたのは、もう一つのアメリカ流「大量・大型化」である。
何でも大量生産し大量販売、ビッグサイズで売る。
日本以外のマックのコーラは普通サイズが500mlはある。
「クォーターパウンダー」という通常の2.5倍の商品を割安な価格で販売したところ、大ヒット商品になった。
この頃『メガマック』など大型サイズにするのが同業他社でも流行した。
期間限定メニューや新メニューを次々に投入し、デフレの勝者と言われた。
アメリカ流の限界
2009年頃までが全盛期で、リーマンショックや東北地震を契機に世の中が変わった。
極限の不況といえる状況が続き、倹約・節約の世の中になった。
特に地震後数ヶ月は戦時中のように「消費は悪」とされた。
『メガマック』は売れなくなり原田社長の迷走が始まる。
大ブームの時に客が店内に入りきれず、注文をさばき切れなかったので、100円メニューから高級化に転換した。
客単価を上げるため1000円マックを発売したりした。
390円や490円のセットを一時廃止して、600円や700円にしているが大失敗した。
客離れを決定的にした「60秒チャレンジ」もこの頃だった。
注文を受けて60秒以内に提供できなかったら無料になるというもので、発想がアメリカそのものである。
従業員は60秒以内に提供するため、商品を『ゴミ』のように扱い投げ捨てた。
これを見た客は「金を払って買う代物じゃない」と気づいた。
さらに矢継ぎ早に大失敗を続け、メニューを廃止した。
原田社長が「メニューを廃止すれば客は単品注文できないから客単価が上がる」と言っって自分で指示した。
メニューが無くなり注文できないので、客は入店しなくなった。
改悪に次ぐ改悪
好評だった期間限定メニューもコストカットのため廃止したが客数が減ったためまた復活した。
価格も同じ商品を1年に、何度も値上げしたり値下げしたりした。
「カフェ化」を進めるためテーブルにコンセントをつけたら100円コーヒーで長居する人が増えたため、一部で廃止した。
サラリーマンが入店しなくなり、客数が減った。
かといってファミリーも子供も若者も、戻って来なかった。
最後のトドメが「中国鶏肉問題」と「異物混入」だが、これは原田社長のベテラン従業員解雇と関係がある。
原田氏は経験の価値を一切認めないので、肉を見分けられないし、異物の混入も防げない。
その原田氏は2015年3月に1億7千万円の退職金を受け取りやっと日本マクドナルドを去った。
後任のサラ・カサノバも原田と同じく米マクドナルドが送り込んだ人物で、日本と何の関わりも無い。
外国人社長や外国人CEOは日産のゴーン社長以降ブームになったが、ほとんど成功例がない。
デフレを乗り切って復活した会社の社長は皆、丁稚から数十年勤めてきた人ばかりである。
日本マクドナルドの将来は、これからも期待できそうにない。

引用:http://articleimage.nicoblomaga.jp/image/16/2012/b/a/baca2de39390b1b7e9a5d47f3e4f65a6b98976c61356516016.jpg
原田マジックで赤字の日本マクドナルドを建て直し、カリスマ経営者と言われた原田泳幸氏。
経営手法はアメリカそのもので、全てを数字だけで判断する。
人間の価値や経験を一切認めず、バイトは「時給700円」の人間でしかない。
現場には熟練した従業員が一人も居なくなり、全員が素人になった。
結局これがマック崩壊の原因を作った。
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低価格と大量化
原田泳幸(えいこう)氏は2004年2月、アメリカ本社が送り込んで来た。
原田以前は日本マクドナルドの創業者である藤田 田(ふじた でん)氏がずっと指揮を執っていたが、7年連続売り上げマイナス、2年連続最終赤字に喘いでいた。
原田の社長就任まで日本のマクドナルドは、米国とは違う独自のスタイルだったが、この時から同じになった。
例えば長い間書かれていた「スマイル0円」は廃止された。
それまで日本の食品業界は無愛想なオッサンが怒ったような顔で対応するのが当たり前で、「スマイル0円」は非常に新しい印象を与えた。
日本マクドナルドの象徴と言える一言だった。
原田はアップル日本法人社長を勤めていたが、まだiPhoneが発売される3年前で、アップルはやっとiPodのヒットで倒産の危機を逃れたところだった。
食品業界の経験は皆無でまったくの素人だった。
アップルが経営危機に瀕した頃、日本での売り上げは会社存続のために重要で、アップル本社の副社長も勤めていた。
原田が社長として就任して最初に社員に演説したとき、バカにしきった態度で英語でスピーチし「従わない奴は出て行けと言ったそうである。
ここから日本マクドナルドの回復と没落が準備された。
原田は食品業界に無知だったので、数字だけを追いかけた。
経験は無駄であり余計なコストなので、ベテラン従業員を解雇し最低賃金のバイトに置き換えた。
経験や熟練は「無駄」
創業以来、バイトから雇って一人前の店長に育て、やがてFCオーナーとして独立する制度が存在した。
これも無駄なコストなので全廃し、とにかく数字として支出が多いものは全てカットした。
これはアメリカでは普通の考え方で、英語には人材という単語も無い。
丁稚が番頭になり、社長になりオーナーになった会社は日本にいくつかあるが、アメリカに人言わせると、人を育てるのは無駄であり、有能な人を雇えば良い。
丁稚制度を廃止したマクドナルドは、急激にFCを増やした。
その実体は悪名高い『名ばかり店長』で、バイトとして最低賃金程度を支払って早朝から深夜まで働かせた。
名ばかり店長に忠誠心も責任感も皆無で、一般のバイトも
そうなっていった。
それでも原田社長就任後の数年間は、前社長が育てた人材が数多くいたので、コストカットのプラス面だけが出た。
業績が急速に回復して赤字決算は翌年に黒字になった。
浮いたコストで商品の値下げを断行して、100円メニューを増やしたところ評判となり、どの店も客で溢れた。
注文を受けてから作る「メイド・フォー・ユー」によって廃棄ロスが減り、出来立てにしたのも受けた。
だがこれは従業員の作業量を極限まで増やし、後に破綻につながる。
次いで原田社長が始めたのは、もう一つのアメリカ流「大量・大型化」である。
何でも大量生産し大量販売、ビッグサイズで売る。
日本以外のマックのコーラは普通サイズが500mlはある。
「クォーターパウンダー」という通常の2.5倍の商品を割安な価格で販売したところ、大ヒット商品になった。
この頃『メガマック』など大型サイズにするのが同業他社でも流行した。
期間限定メニューや新メニューを次々に投入し、デフレの勝者と言われた。
アメリカ流の限界
2009年頃までが全盛期で、リーマンショックや東北地震を契機に世の中が変わった。
極限の不況といえる状況が続き、倹約・節約の世の中になった。
特に地震後数ヶ月は戦時中のように「消費は悪」とされた。
『メガマック』は売れなくなり原田社長の迷走が始まる。
大ブームの時に客が店内に入りきれず、注文をさばき切れなかったので、100円メニューから高級化に転換した。
客単価を上げるため1000円マックを発売したりした。
390円や490円のセットを一時廃止して、600円や700円にしているが大失敗した。
客離れを決定的にした「60秒チャレンジ」もこの頃だった。
注文を受けて60秒以内に提供できなかったら無料になるというもので、発想がアメリカそのものである。
従業員は60秒以内に提供するため、商品を『ゴミ』のように扱い投げ捨てた。
これを見た客は「金を払って買う代物じゃない」と気づいた。
さらに矢継ぎ早に大失敗を続け、メニューを廃止した。
原田社長が「メニューを廃止すれば客は単品注文できないから客単価が上がる」と言っって自分で指示した。
メニューが無くなり注文できないので、客は入店しなくなった。
改悪に次ぐ改悪
好評だった期間限定メニューもコストカットのため廃止したが客数が減ったためまた復活した。
価格も同じ商品を1年に、何度も値上げしたり値下げしたりした。
「カフェ化」を進めるためテーブルにコンセントをつけたら100円コーヒーで長居する人が増えたため、一部で廃止した。
サラリーマンが入店しなくなり、客数が減った。
かといってファミリーも子供も若者も、戻って来なかった。
最後のトドメが「中国鶏肉問題」と「異物混入」だが、これは原田社長のベテラン従業員解雇と関係がある。
原田氏は経験の価値を一切認めないので、肉を見分けられないし、異物の混入も防げない。
その原田氏は2015年3月に1億7千万円の退職金を受け取りやっと日本マクドナルドを去った。
後任のサラ・カサノバも原田と同じく米マクドナルドが送り込んだ人物で、日本と何の関わりも無い。
外国人社長や外国人CEOは日産のゴーン社長以降ブームになったが、ほとんど成功例がない。
デフレを乗り切って復活した会社の社長は皆、丁稚から数十年勤めてきた人ばかりである。
日本マクドナルドの将来は、これからも期待できそうにない。
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