kono_danwa
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地位を利用して技術どろぼうに加担

外務大臣から防衛大臣に転身した河野太郎大臣は自民党内でも保守派の論客として知られています。

河野太郎の父は河野洋平で、河野談話を発表し朝日グループによる従軍慰安婦捏造に加担したのは良く知られている。

だが河野洋平の悪行はこれだけではなく、彼がなくなって「良い人だった」などと言われる前に書いておこうと思う。

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一時期日本はインフラ輸出を重視していて新幹線を外国に売り込もうとしていたが、どこへ輸出するにも必ず中国が競合して自国の高速鉄道を売り込んでいる。

中国の高速鉄道は見た目も規格も日本と同じものであり、品質だけが違う。

中国に新幹線の技術支援を無償で行ったのはJR東日本や川崎重工業で、日本政府が命令して支援させました。


その時、地位を利用して日本の技術を無償で引渡させて、見返りを受けたのが衆院議長の河野洋平でした。

彼は江沢民の忠実な部下である事から「江の傭兵」などと呼ばれていた。

新幹線の技術の全てをタダ同然で売却する計画を政府主導で強引に推し進め、国内の猛反対を推しきって実行させました。


当事者のJR東日本と川崎重工は反対したが、「日本は中国を侵略したのだから国際貢献する義務がある」と言って民間企業の経営に介入してまで協力させた。

中国から支払われるのは車両の代金だけで、日本側が渡すのは「新幹線の技術の全て」という空前絶後の契約が交わされた。

その陣頭指揮に立ってごリ推ししたのが衆院議長の河野洋平でした。


中国は新幹線技術を受け取った後、自国で開発した独自の技術だと主張し、国際特許を取得して「日本が新幹線技術を盗んだ」と主張した。

中国の高速鉄道は最初から、日本の新幹線を走らせるため幅を広く確保してあり、最初から技術を盗用するつもりだったのが分かる。

幅の狭いフランスやドイツの車両を走らせるには不都合な設計がされていた。


2003年に入札がされ、ドイツやフランスの車両も一応購入したがこれはブラフで、線路の設計段階から、日本の左翼政治家と合意がなされていた。

2003年には既に小泉政権で、左翼の橋本龍太郎や野中弘務は主流派ではなくなっていたが、河野洋平は2003年から2009年まで衆院議長を務めていた。

小泉政権の自民党は少数与党であり、公明党との連立で政権を保っており、しかも参議院では過半数割れになる事があった。


自民党で最も中国寄りの左翼政治家である河野洋平は、野党とのパイプ役として絶大な権力を振るった。

小泉首相は河野洋平に逆らったら議会運営ができなかったので、靖国参拝で憂さ晴らしするのが精一杯だった。



「天皇を謝罪させた」と自慢した男


河野洋平の悪行の中でも最悪のものが、1992年の(平成)天皇訪中である。

当時中国は1989年の天安門事件で世界から経済制裁を受けて、経済が挫折していた。

自民党左翼グループは、中国への制裁を解除し、天皇を訪問させる事で中国に貢献しようと考えた。


首相は宮沢喜一だったが、この人はどうしようもないお人形さんで、首振り人形のようにうなずいているだけだった。

野中広務と共に自民党きっての親中国派だった河野らは、中国に行って天皇訪中を勝手に約束してきた。

河野と中国側が決めた日程では、天皇は南京市を訪問し市民の前で、土下座して謝罪する事になっていたが宮内庁が拒否した。


天皇自身が拒否したのが、周辺がそうしたのかは伝わっていない。

この後、河野は江沢民に「私が天皇を謝罪させた河野洋平です」と自分を売り込み、日本でも「俺が天皇を謝罪させた。俺は天皇より偉いんだ」と言いふらした。


河野洋平は宮沢内閣で官房長官を勤め、村山内閣で外務大臣を務め、小泉内閣から鳩山内閣まで衆院議長を務めた。

自民党は下野したのにこれほど長く権力の座に居た理由は、言うまでも無く中国の強い推薦があったからである。

中国は80年代から2000年代まで、日本の閣僚人事に難癖をつけて「侵略を反省していない」「帝国主義者」「平和主義者」などとレッテルを貼って問題にした。


中国と韓国に非難される事で辞任した閣僚は何人もいて、自民党総裁選挙にまで堂々と介入していた。

河野は外務大臣だった村山内閣でも有名な事件を起こしていて、タイから日本に帰国するとき台風で台湾の飛行場に緊急着陸したのに、飛行機から一歩も降りなかった。

空港のロビーでお茶でも飲んだらどうかと思うが、降りなかった理由は「中国との関係を損なう」というものだった。


その後中国を訪問した河野は「私は台湾の空港では飛行機から降りませんでした」と江沢民に報告した。

これが河野洋平の『全盛期』だが騒動は意外な場所で続くのである。


鈴鹿F1は唐突に富士に変更された。当時の衆院議長は河野洋平だった。
河野洋平は富士スピードウェイを建設し、運営会社の副社長だった事がある。
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引用:http://farm3.static.flickr.com/2174/2101195062_f0aca15464.jpg


富士F1の醜態

日本には鈴鹿サーキットというサーキットがあり、もう一つ「富士スピードウェイ」というサーキットがある。

この「富士スピードウェイ」を建設大臣の権限で建設したのが、洋平の父である河野一郎でした。

1962年に本田宗一郎が鈴鹿サーキット(日本初の本格的サーキット)を完成させ、1963年に第一回日本グランプリを開催すると大ブームになった。


初代スカイラインGTが一周だけポルシェを抜いて伝説になった頃の事でした。

それを見て気に食わないと思ったのが河野一郎(建設大臣)で、自分のサーキットを作り大臣の権力を利用して鈴鹿GPを中止させて富士で開催させた。

河野一郎は完成前に急逝したため息子の河野洋平が富士スピードウェイの建設を指揮した。


河野スピードウェイと呼んでも良いほどの深い関係があり、河野洋平は富士スピードウェイの運営会社の副社長をしていた事もある。

鈴鹿で開催されていた日本グランプリは第3回から不可解な理由で富士に変更されたが、コースが不出来で危険であり、排ガス規制の影響で廃止された。

1976年と1977年に富士でF1が開催されたが、レース中に事故が発生し、F1そのものが日本から消える原因になった。


富士が危険なのは完成前から指摘されていて、日本GPやF1が開催された理由は河野家の政治力の影響があったとされている。

その後F1を巡って、30年後にまったく同じ出来事が繰り返される事になった。


1987年から鈴鹿サーキットで再びF1が開催され、アイルトンセナとマクラーレンホンダで大ブームになった。

こうなると気に食わないのがやっぱり河野洋平であり、2007年と2008年のF1は富士で開催された。

もっとも公式には「河野洋平の圧力に屈してF1は富士に移転した」などとはどこにも書かれていない。


2007年に富士で開催されたF1は歴史に残る酷いもので、多くの観客はサーキットまで辿り着けず、レースを見れなかった。

コースはいつ大事故が起きても不思議でないほど危険な状態で、設計上の問題は解決していなかった。

「大事故が起きないうちに」と考えたのか富士のF1は2年間だけで鈴鹿に開催権を返上した。

これらは単なる偶然とも取れるが、河野洋平の人間性を考えると、権力を振るって介入したのは確実に思える。


こういう父と祖父をもち選挙区とカネを受け継いだのが河野太郎で、どんな人間性かはまだ分からない。


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