琉球時代の王を再現した儀式
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引用:http://konotabi.com/photoalbum/Okinawa2007/Shurijo/image19.jpg



破綻した琉球を助けた徳川幕府

沖縄の人は残念ながら、戦後沖縄に浸透した左翼の流言による嘘の知識を信じている。

沖縄の基地を巡って沖縄と政府が対立しているが、表面的な議論ばかりで、沖縄そのものの成り立ちが語られる事はない。

沖縄人自身が沖縄について間違った知識しか持っておらず、左翼知識人に吹き込まれた嘘の知識を元に「中国こそ沖縄の祖国」などと思っている。

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嘘の歴史では「琉球王国は豊かな独立国だったが、突然薩摩と幕府が侵略し植民地支配した為、琉球の人々は2重課税され、どれいの様に働かされ搾取された。」としている

沖縄人は自分達をこう思っているが、これは戦後の敗戦につけこんで中国やソ連、米国が日本の左翼を利用して植えつけた知識です。

まず琉球が日本や明のような「独立国」だった事は有史以来一度もありません。


15世紀ごろ、琉球は明の冊封体制に組み込まれ明の属国になりました。

琉球王は明の属国になるのと引き換えに琉球の統治を認められたのであって、そもそも国家などではない。

薩摩藩や土佐藩は大和朝廷から任命された徳川将軍の部下であって、独立国ではないのと同じ事です。


明という国家に従属する1人の王として貿易を認められた琉球は繁栄したが、繁栄は100年ほどしか続かなかった。

明が鎖国していたから琉球は中継地として中継貿易を独占できたのだが、明が鎖国を辞めた事で存在理由がなくなった。

「琉球は明との貿易で栄えていた」というのは15世紀の時代で、今から600年以上も昔の事です。


明の鎖国政策の終わりによって切り捨てられた琉球は昔の貧困に戻りました。

16世紀には琉球は既に破綻しており、国として立ち行かなくなっていました。

そこにやってきたのが薩摩と徳川幕府で、薩摩の支配に組み込まれる事で日本との中継貿易が可能になり、再び琉球は栄えました。


「豊かだった琉球は薩摩の侵略で貧しくなった」というのは真実とは真逆の大嘘です。

日本は徳川幕府の鎖国令によって鎖国していたが、いくつかの例外が設けられており、長崎の出島、朝鮮との交易、琉球を仲介した大陸との交易を認めていました。

中継貿易の拠点として息を吹き返した琉球は、八重山地震まではバブルとも言える繁栄を謳歌しました。


薩摩藩は琉球を搾取するどころか、琉球の開発を助け農地の開拓に励みました。

一方で琉球は15世紀から続けていた冊封体制も存続し、明や清に貢物を献上していました。

琉球が栄えていた時代には明からお返しの貢物が届けられましたが、利用価値が無くなってからは、琉球からの一方的な搾取になっていました。


1771年、八重山地震による津波で八重山諸島の人口の3分の1がなくなる大被害があり、薩摩が行った農地開発は水泡に帰し、琉球は再び破綻して貧乏のどん底に落ちました。

このとき琉球を助けたのは、やはり薩摩と徳川幕府で、幕府は薩摩に、薩摩は琉球に物資や人手を送る事で援助しました。


冊封体制の清は何もしてくれませんでしたが、琉球は相変わらず朝献を続けたので、幕府から止めるように言われています。

八重山地震で破綻した琉球王は住民に人頭税など重税を課しました。

現代の琉球人である沖縄人は「薩摩と幕府が2重課税を課した」という嘘を信じ込まされているが、薩摩や幕府が琉球で徴税した事は明治維新まで一度も無い。


また薩摩や幕府が琉球に貢物や金銭を要求した事もなく、常に琉球から送られる以上の物を送って援助しました。

これを「日本人が沖縄から略奪した」とは無礼にも限度がある。



琉球征伐の実態

薩摩が琉球を支配下に置いた経緯についても嘘が信じられている。

徳川家は関が原の合戦に勝利し征夷大将軍に任命され日本の全ての大名の頂点に立った。

征夷大将軍は天皇から任命された役職で、いかなる大名や武将も将軍の部下である。


徳川幕府は琉球に対して自らに従うように何度か使いを出したが、琉球王であった中山は徳川を罵り侮蔑する態度に出た。

徳川幕府と琉球の間を仲介していたのが薩摩であり、琉球王の無礼な態度に対して薩摩に征伐の命令が下った。

つまり薩摩はある日思いつきに攻めたわけではなく、存命だった徳川家康が命令した。


直接の原因は徳川の使者に対して、対応に当たった謝名が罵詈雑言を吐いて侮辱したからだった。

使者を侮辱するのは近代以前には最も多い戦争理由で、例えば蒙古襲来や朝鮮征伐もこれで始まった。

薩摩藩は1609年に琉球に上陸したが、琉球は戦う意思を示さなかったので公式な戦闘は起きなかった。


抵抗した離島の住民ら数十人を倒し、薩摩軍も数名の犠牲が出たとされているが、鉄砲の射撃に驚いて多くの住民は降参した。

薩摩軍3千人は住民らによる小規模な抵抗を受けながら本島に上陸し、本島では戦闘は無く和睦文書が交わされた。

最初の島に上陸したのが1609年3月2日で、4月1日には首里城で講和が調印され、薩摩軍に撤退命令が出た。


これが琉球上陸あるは琉球討伐の全てである。

以降は薩摩藩の藩士数十名が駐留しただけで、明治維新まで薩摩軍が来る事は無かった。

皮肉な事に明から捨てられて貧困にあえいでいた琉球王は徳川幕府によって王の座を保証され、援助まで受ける事になった。


徳川は琉球を魅力ある場所とは思わず、自らの軍隊を派遣して直接統治しようとはしなかった。

薩摩軍が琉球に駐留するのも望ましくないと考えたので、いわば非武装の中立地帯のようになった。

幕府から見ると当時東南アジアを植民地化していた西洋が琉球を支配するのは避けたいので、琉球を援助する事で存続させ安定させようとした。

これから1771年の八重山地震までは、琉球が最も平穏で幸福な時代だった。


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