皇居上空を飛行する100年前の国産2号機
TokugawaToyoKoukyoue
引用:http://www38.tok2.com/home/hmika/TokugawaToyoKoukyoue.jpg


国産航空機の三菱スペースジェット(旧MRJ)は最終段階で引き渡しに苦戦しているが、国産航空機の歴史は長く、ライト兄弟から8年後でした。

それから100年以上が経ち、再び国産航空機の歴史が始まろうとしている。


初の国産飛行機

1911年10月13日、フランス製複葉機を参考にして会式一号が試作され初飛行に成功した。

エンジンもフランス製でフランス機のコピーではあったが、これが国産飛行機第一号でした。

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アメリカのライト兄弟が初飛行したのは1903年12月17日だったので、日本は8年後と比較的早かったのが分かる。

日本で始めて飛行機が飛行したのは1910年12月19日 代々木練兵場(現、代々木公園)、フランスとドイツの複葉機だった。

初期の陸軍は「臨時軍用気球研究会」を創設しフランスとドイツに操縦士候補を派遣して技術を習得させた。


最初に輸入した飛行機もフランス製とドイツ製の4機だったが、連日の飛行訓練によってすぐに故障していまい、国産化する必要に迫られた。

つまり初の国産飛行機は高度な技術に挑戦するなどの意欲的なものではなく、輸入機が壊れたのでコピーして製造した。

当時の日本には工業機械が無かったので、大工がノコギリで木材を切って加工したという記録が残っている。


完成した国産飛行機はオリジナルのフランス製飛行機より性能が良く、高い評価を受け後継機が開発される事になった。

この会式飛行機は7号機まで製作され戦闘機も作られ、国産戦闘機第一号にもなっている、

会式の操縦士だったのは清水徳川家第8代当主の徳川 好敏(男爵)で、飛行機がいかに期待されていたかが分かる。



国産軍用機の開発へ

1916年にアメリカではボーイングが初の飛行機「Boeing B&W」を開発していました。

「Boeing B&W」は水上機で、第一次世界大戦のパイロット訓練用に700機が生産されるヒット作になった。

1918年 中島式一型一号機が初飛行し中島飛行機(富士重工)が航空機産業に参入した。


1921年、三菱甲式練習機で三菱が始めて飛行機製造に参入した。甲式とはフランスのニューポール社を現す記号で、フランス製のコピーだった。

1922年 日本初の航空母艦「鳳翔」が建造された。

1922年 陸軍航空学校研究部で、校式2型試作戦闘機が完成した。


1923年 三菱一〇式艦上戦闘機が正式採用され、空母戦闘機の歴史が始まる。

1925年 陸軍は三菱、中島、川崎、石川島などに爆撃機と偵察機の試作を指示した。

試作機の中から三菱の八七式軽爆撃機が1925年に制式採用、川崎とドルニエが共同開発した87式重爆撃機も1927年に採用された。


1928年6月 日本初の戦闘機である中島九一式戦闘機が初飛行し、444機も生産され中島(富士重工)を飛行機メーカーとして成功に導いた。

1932年 川崎九一式戦闘機が陸軍に正式採用され、385機が生産された。

ボーイング、三菱、中島、川崎、石川島などのメーカーは後に第二次世界大戦で激突し、今日でも航空機製造に関わっている。

ボーイングと中島・三菱の日本メーカーは数年の誤差で同時期に飛行機の生産を始めているのが興味深い。



世界大戦の敗戦

第二次大戦の日本の主力戦闘機、一式戦闘機「隼」、零式艦上戦闘機が初飛行したのは1938年と1939年なので、最初の国産戦闘機が完成した10年ほど後になる。

この頃の飛行機の進歩がいかに急激だったかが分かり、最初の戦闘機の完成前に日本初の空母が完成していた。

第二次大戦初期の航空機の性能は、日本の方が優れていたが、日本勢には絶対に作れない機種があり、それがボーイングの超重爆撃機だった。


B-17爆撃機は、1935年にドイツ軍艦を攻撃する対艦攻撃機として完成した。

しかし実際にはドイツ本土の工業地帯を爆撃する長距離爆撃機で、合計6900機も生産された。

後継機のB-29は運動性が最悪で建物や船に爆弾を命中させる事はできなかったが、B-17は日本軍艦に大打撃を与えている。


最大重量29トンで、4.9トンの爆弾を搭載し、航続距離は最大5800キロに達した。

これを同時期の日本の爆撃機と比較すると、1937年採用の九七式重爆撃機は、最大重量約10トンと3分の1だった。

爆弾は最大1トンと5分の1、航続距離は最大2700キロと半分で、しかも故障が多かったとされている。


同じ量の爆弾を投下するのに、97重爆ではB-17の5倍の数が必要で、しかも半分の距離に接近しなければならない。

対戦中の日本は大規模な爆撃を行わなかったが、それは爆撃機の差によるものでした。

大戦後半にはグラマンF6Fヘルキャット、ノースアメリカンP-51マスタングが登場すると、戦闘機の性能や信頼性でも叶わなくなった。


対戦中のアメリカの航空機の進歩は凄まじく、爆撃機は日本機の上空を超えていき、戦闘機は日本機が出せない高速で飛行していた。

オマケに防弾装備で燃料タンクに銃弾が命中しても炎上せず、操縦席に当たってもパイロットは負傷しなかった。



戦後の国産航空機

敗戦後に航空機メーカーは飛行機に関わる事を禁止され、多くの技術者はオートバイや自動車、機械製品の製造に関わるようになった。

1960年代に多くの自動車メーカーはスポーツカーを発売したが、その技術者の多くが大戦時に軍用機を開発していた。

敗戦10年後の1956年、運輸省は国産輸送機の開発を指示しYS-11になったが、結局のところ失敗に終わった。


失敗した原因はひとつには11年の空白で日本の航空産業が崩壊していた事、大戦時の技術は11年の間に過去の遺物になっていた事。

最後の留めは「航空機は侵略戦争につながるから絶対に許されない」とする反日共産勢力だった。

共産主義はこの頃から1970年代に日本で全盛期を向かえ、ソ連や中国の為に日本軍の復活を防止しました。


この後は1955年からはF-86F、1961年にF104J、1970年代にF-4EJ。1980年代にF-15Jを三菱がライセンス生産している。

1971年には三菱T-2超音速練習機、1977年には三菱 F-1支援戦闘機が初飛行している。

だが1945年からの日本の航空機産業は、アメリカの下請け、アメリカが認める範囲の開発しかして来なかった。


流れが変わったのは2000年5月14日、総理大臣の小渕恵三が急逝し、意味不明な経緯で選挙も投票も無く森嘉朗が総理大臣になった。

1987年の中曽根総理を最後に日本の総理大臣はずっと左派系が続いており、保守的な人物は本流から外されていた。

森嘉朗は自らが短命内閣なのを悟っていたのか、国産旅客機MRJ、国産哨戒機PX、国産輸送機CX、試作戦闘機ATD-X開発を指示し、自らは不人気ですぐ退陣した。


しかしその後、小泉純一郎、安倍晋三と森派議員が総理に就任し、続く福田康夫、麻生太郎でも影の力として総理誕生に関わった。

2009年の民主政権誕生まで「森時代」が続いたので、4つの国産航空機計画は、もはや民主党も止められない段階に進んでいた。

そして2012年からは再び森派の安倍晋三が総理になり、実質的にまだ森時代が続いています。


19年前に森総理が開発を指示した4つの航空機のうち、3つは既に配備されたり飛行目前になっていて、残された国産戦闘機も防衛省が国際共同開発に乗り出している。


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