力道山が後継者と期待したのは馬場で、猪木は使用人、付き人だった。
img_11
引用:http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-00-ef/kpgcm339/folder/1493979/22/60250222/img_11?1440763804


アントニオ猪木は元はブラジル人だが、日本で人気レスラーになり、今は日本の国会議員をしている。

だが日本の為に働く気はさらさら無く、北朝鮮の擁護と日本非難だけを繰り返しています。


猪木と北朝鮮

参議院議員で元プロレスラーのアントニオ猪木は、北朝鮮との深い関係で知られています。

2014年の8月30日と31日には「インターナショナル・プロレスリング・フェスティバルin平壌」というプロレスイベントを開催しています。

平壌市内の体育館で開催し、ボブサップや新日プロの選手が出場し、3万人以上が集まって大盛況だったようです。
          スポンサー リンク


猪木は20年前の1995年4月28日と29日にも、先代の金正日の招待で「平和のための平壌国際体育・文化祝典」というプロレス興行を開催しました。

金正日は1994年7月8日に金日成に代わって最高指導者になり、日本との交流を求めていた時期で、これをきっかけに日本との関係改善を進める意図があった。

当時は小泉首相訪朝の遥か前で、日本人拉致を認めておらず、全てのマスコミは『自称拉致被害者家族のでっち上げ』と被害者側を非難していました。


拉致を無かった事にしていまい、日本に謝罪させて賠償金まで得ようという北朝鮮の活動が後に明らかになっています。

この頃村山内閣から小渕内閣で、閣僚や自民党要職を歴任した野中広務は北朝鮮との国交回復を図り、謝罪して賠償金を支払おうとしたとされている。

野中広務が金額を訪ねたところ、北は日本のGDPと同じ500兆円を要求してきたので実現しなかったと伝えられています。


それはともかく、猪木と北朝鮮がここまで親しくなり、事実上北朝鮮の協力者として働くようになった理由がかなり興味深い。

1994年(平成6年)9月に金容淳の招きで初めて北朝鮮を訪問し、力道山の家族や知人と合い深い関係を築きました。

その後30回にも渡って北朝鮮を訪問し、自分には北朝鮮との太いパイプがあり、北を動かせるのは自分しか居ないと豪語している。



心は北朝鮮人の猪木


猪木は2013年に参議院議員に当選したときに外国人記者団への会見で「拉致被害者が帰ってくれば私達は幸せになれるんですか?」

「2国間の問題を世界を回って訴えてるのはおかしい」「首脳会談で1対1で話し合うべきだ」と日本を一方的に非難し、拉致被害者など帰って来なければ良いと発言しました。

「一番の問題は日本政府が拉致被害者と言ってる数字がどんどん変わり、日本で失踪した人も含まれている。北朝鮮側は、日本はいい加減なことを言ってくると思っている」


日本が悪い事をしたのだから日本人なんか拉致されて当たり前なんだ、という趣旨の発言をこれまでに再三繰り返しています。

そして小泉元首相が約束した「過去の清算」を日本側は実行しておらず、約束を破って経済制裁までしている、だから北朝鮮は怒っているとも言いました。

猪木の言い分を聞いていると何もかも日本が悪く、侵略したのだから拉致は当然で、日本が文句を言う権利は無いという事です。


「北朝鮮の支持者」と書いても何の相違も無いと思いますが、「北朝鮮の敵と見做される」という理由で拉致議連への入会も拒否しました。

その後国会期間中に、日本政府の承認なしに北朝鮮を無断で訪問したりもしていました。

どうして猪木という人間がここまで北朝鮮と一体化するに到ったのかは、猪木の師匠の力道山が原因でした。


力道山の朝鮮名は金信洛と言い、1924年生まれなので生まれた時は日本国籍の日本人で、日本名は百田光浩と言います。

朝鮮総督府、咸鏡南道洪原郡新豊里という場所で生まれ、長崎県大村市の農家・百田家の養子となり、1940年に16歳で相撲部屋に入門しました。

1940年に養子になった事で1945年に日本が敗戦しても日本国籍のままで、1948年の韓国建国以降もそのまま日本に留まりました。

力道山は韓国国籍だったとか、北朝鮮だったとか言う人が居ますが、日本人の養子になったのだから国籍としては日本人だった筈です。


「拉致被害者が帰って来たら日本人は幸せになれるんですか」
と名言を吐き、笑いながら「ダー」とパフォーマンスした。
o-ANTONIO-INOKI-facebook
引用:http://i.huffpost.com/gen/1281227/images/o-ANTONIO-INOKI-facebook.jpg



力道山の負の遺産


1949年に親方と金銭問題を起こして相撲界から追われ、1951年にプロレス入りを決意、1953年日本プロレス協会を設立しました。

力道山は「日本人」として活躍しヒーローになったが、力道山自身は自分を日本人とは思っておらず、朝鮮人である事にこだわり続けました。

力道山は韓国を訪問し、北朝鮮を訪問したことは無かったが、北に多額の献金をしていたと言われています。


事実の確認は出来ないものの、若者だった金正日は何度も日本に遊びの為に密航し、その費用は全て力道山が負担していたとする説もあります。

こうした北朝鮮と親密な関係を、弟子として受け継いだのが猪木で、平城でのプロレス大会を見ると、新日本プロレスそのものも、深く関わっています。

なぜアントニオ猪木は拉致被害者を敵視して「帰って来なければ良い」などと暴言を吐くのか、その答えは力道山にありました。


          スポンサー リンク


          スポンサー リンク