1983年、セブンイレブン社長として働いていた頃
1980photo
引用:http://vdata.nikkei.com/newsgraphics/seven-suzuki/img/1980photo.png


米セブンイレブンと契約して日本1号店を作り、「コンビニを作った男」と呼ばれた男が、老境に入って疎まれているようです。

鈴木敏文会長は現社長に代わって、自分の息子を社長にしたいと思い、現社長解任を要求していた。


コンビニを作った男、事実上の追放

セブン&アイHDの鈴木敏文会長兼CEOが4月7日に突然辞任し、驚かせている。

鈴木会長は7日午前、対立していたセブンイレブンジャパンの井阪隆一社長交代を取締役会にかけたが否決された。

セブン&アイHDは重要な人事を社外取締り役を含む「指名・報酬委員会」にはかる事になっているが、否決された。
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委員会が否決した事で翌日の取締役会でも賛成を躊躇する役員が現れ、15人中7人しか賛成せず否決された。

鈴木会長はその日のうちに会長職から退くと発表し、出席予定が無かった決算発表会で引退の記者会見をした。

会見では「井阪社長は自分1人でやってきたような話をしていてがっかりした」と井阪隆一社長への憎悪を隠そうとしなかった。


鈴木会長は自分の息子である鈴木康弘(取締役執行役員最高情報責任者)を次期社長にする為。井阪社長を降ろそうとしたと言われている。

セブン&アイHDの株主である米ヘッジファンド「サードポイント」は世襲に反対する立場を表明した。

鈴木会長は「サードポイントに内通した人間がいる」として暗に井阪社長を支持するグループだと指摘した。


鈴木会長は井阪社長を交替させる理由として、任期が7年もの長期間に渡っている事と、改革案を出せなかった事を挙げていました。

だが井阪社長が就任以来セブン&アイHDは7年連続最高益で、8年目も最高益を上げると見られている。

取締役会でもこの点を重視して、井阪氏の交代は適当ではないとする役員が多数を占めた。


セブンイレブン1号店、最初は上のように「7」が無かった
7-11
引用:http://www.officej1.com/s50years/image/7-11.jpg



老いて私利私欲の功労者


鈴木敏文会長がセブン&アイHDの大株主なら、役員を交代してでも人事を通せたが、彼は雇われ社長に過ぎなかった。

1962年にイトーヨーカ堂に入社したが、当時は5店舗しかない小規模なスーパーに過ぎなかった。

ちなみにイトーヨーカ堂は百貨店ではなくスーパーとして事業展開していて、全国約190店舗を構えています。


イトーヨーカ堂の創業家は現名誉会長・伊藤雅俊の伊藤家で、鈴木の入社後10年目にコンビニのセブンイレブンを始めた。

この時設立した「ヨークセブン」が現在のセブンイレブンジャパンになり、鈴木敏文が社長として陣頭指揮を執った。

日本初のコンビニとしてセブンイレブンは大成功を収め、1991年にアメリカ本社を買収して日本が本社になった。


この頃には「コンビニの王者」とか「流通の神様」「セブンイレブンの天皇」などと呼ばれるようになり、創業家すら鈴木に逆らえなくなっていた。

高齢に伴って会長職に退いたが、そこで頭をもたげてきたのが「自分の地位を息子に譲りたい」という野望だった。

鈴木は雇われ社長なので、「自分がセブンイレブンを作ったから俺の物だ」と考えても、結局株主の物でしかない。


息子の鈴木康弘はセブンイレブンの社員ではなく、ソフトバンクや富士通で働いた後、1999年セブンネットショップの社長に就任した。

なぜ突然関連会社社長としてセブンイレブンに入って来たのかと言えば、親のコネ、ゴリ押し以外考えられないでしょう。

セブン&アイHD役員など要職についているが、手腕や能力への評価は特に無いようです。


その凡庸な人物をセブン&アイHDは最高情報責任者(CIO)に任命したとき、鈴木敏文会長への猛反発が巻き起こりました。

息子を社長にするため現社長を引きずり降ろそうとする鈴木敏文と、現社長の井阪隆一で会社を二分する抗争が勃発した。

鈴木敏文は「自分がセブンイレブンを作った」自負があり、創業家は絶対に自分を支持すると信じていたようです。


だが創業家の方でも世代交代で代わっており、現当主は鈴木康弘より井阪隆一現社長をを選びました。

鈴木敏文会長は自らが辞任することで、後継者を指名する動きを見せるとも言われていて、内紛はまだ続くかも知れません。

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