引揚げ船で満州から帰国した避難民、カメラのような高級品は略奪されたため、引き揚げ中の写真はほとんど無い
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多くの人は帰国を躊躇した

第二次大戦終了後に、朝鮮半島北側に取り残された日本人は、30万人以上と言われています。

満州で取り残された日本人は100万人以上で、ソ連と中国支配地域を合計すると、200万人に達したとされています。

このうち帰国できなかった人は50万人前後と推測されるが、正確な人数は今も分かっていません。
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この50万人はソ連と中華民国(台湾)、共産党軍(中国)によって捕らえられたり、暴行された末になくなりました。

これほど多くの残留者を出した原因は、日本本土の大本営が「日本は食糧が不足し混乱している」として帰国させるなと関東軍に命令したからでした。

200万人もの大陸在留日本人が帰国したら、ただでさえ危機的状況にあった本土の食糧事情が、さらに悪化すると考えました。


その一方で関東軍は自分たちだけは安全に帰国できるように計らい、満州や朝鮮北部から、38度線南側に密かに撤退しました。

満州と朝鮮北部の在留日本人には撤退を秘密にし、ソ連と戦いに行くと言って騙して逃げ出していました。

まず軍人が逃げて、ついで軍人の家族が逃げ、次に軍属や警察官、役人が逃げ出して、民間人が列車に乗るのを禁止すらしました。


関東軍が撤退した後でやっと一般人が列車を使えるようになったが、既に8月15日になっていました。

ソ連軍が満州や朝鮮北部に攻撃開始したのが8月9日で、それから終戦の15日まで、民間人は事実上避難を禁止されていました。

ソ連軍は北から満州と朝鮮に進軍を開始し、一刻も早く逃げないとソ連占領地域になってしまいます。



わずかな判断ミスで帰国できなかった人達

ところが関東軍や日本軍はソ連と日本が開戦した事や、日本が降伏した事実すら民間人に秘密にしたため、避難しなかった人が多かったのです。

在留日本人は8月15日に戦争が終わったのは知っていたが、「戦争は終わったのだから逃げる必要はない」と考えた人が大勢居ました。

終戦時点では朝鮮や満州の行政機構はそのまま存在し続ける可能性があり、日本人の資産も保護されると考えられていました。


満州や朝鮮北部に居住していた日本人の多くは、何十年もかけて家を建てたり現地で生活を築いて来たので、捨てるのをためらいました。

かなりの日本人居住者は、このまま自分たちの資産が保全されるほうに期待をかけ、なるべく避難したく無かったのです。

だが関東軍が撤退してしまったので、ソ連軍も日本軍を追いかけるように南下し、戦闘せずに38度線に達する事ができたのです。


ソ連軍はすぐに南下した訳ではなく、その速度は牛歩の歩みくらいゆっくりしたもので、すぐに行動すれば逃げれない訳ではなかった。

理由はソ連軍主力がドイツ占領のため欧州に集中し、極東ではトラックすら不足し、兵士は徒歩で歩いていたからでした。

国境付近にいた日本人がソ連軍に襲撃され、避難民(当時避難民と言っていた)が南下するのを見て人々は始めてソ連軍が迫っているのを知りました。


日本軍や政府が避難指示を一切出さなかったため、避難するかどうかは個人の判断にまかされ、多くの人は「残りの給料を貰ってから」「家や家財を処分してから」ゆっくり日本に戻ろうと思っていました。

8月15日にはソウル行きの列車が出ていたのに(ソ連軍が到達していない地域は、また日本帝国が支配していた)、何日か遅らせたために列車の運行が止まりました。

ソ連軍は満州や朝鮮北部を占領すると鉄道を自分のために使用し、日本人が列車に乗るのを禁止しました。


しかもソウルや38度線近くまで行けば良いのに、「食べ物を調達したい」(暫くは日本円が通じた)一晩休みたいなどの理由で途中下車したグループが大勢居ました。

8月15日から数日間は一日や1時間で列車の運行状況が悪化し、途中で降りた人は全員ソ連に拘束される事になります。

ソウル直行列車は既に運行していないので、どのみち列車が止まった場所で降りる事になるが、ここでも多くの避難民グループが致命的な判断ミスを犯します。



避難民を襲う負の連鎖

38度線までは数百キロで、線路沿いに一日30キロから50キロ歩けば数日であり、しかも8月15日からしばらくはソ連軍は38度線に到達していませんでした。

少し無理をすれば歩いて帰れるのに、ほとんどのグループは「列車が再開したら乗って帰ろう」と思い、降車駅の学校などで滞在してしまいました。

列車の再開を待っている間に、ソ連の先発隊が町にやってきて日本人の移動を禁止し、全員が収容所に拘束される事になります。


終戦から1ヶ月ほどは徒歩なら移動は自由で、朝鮮総督府はまだ(一部が)機能していて、日本円で買い物もできたので、これが最後のチャンスだった。

だが多くの人は無為に時間を潰してしまい、朝鮮総督府は崩壊し、日本円は数分の一に下落し、朝鮮の人々の日本人への態度は悪化しました。

日本帝国や総督府が存在したから朝鮮人は日本人に従っていたので、それがなくなりソ連という新たな支配者が来れば、日本人への態度はきついものになります。


それでも朝鮮北部の避難民は満州よりは良く、満州では日本発行通貨の価値が、半年で400分の1になりました。

退職金代わりに現在の価値で数百万円貰った公務員が多かったが、半年後には1万円分の価値しかなくなっていたのです。

朝鮮北部ではそれでも、3割ほどのレートで朝鮮通貨に交換でき、38度線への帰還でも現金が重要な役割を果たしました。


1945年の冬は日本人はソ連収容所に入れられ、飢えと寒さと疫病で多くの人がなくなりました。

最初に列車に乗って楽をして帰りたいと思ったために、もう歩く体力すら失って力尽きた避難民が多かったのでした。

ソ連軍は略奪を繰り返し、銃をぶっ放しては「女を出せ」と言って暴れ、ソ連占領地域に残った女性全員が被害に遭ったと考えられています。


ソ連はわざと衰弱させて反抗できなくする管理方法を取っていたので、男は栄養失調で動けなくなり反抗するものはいなくなりました。

中国人や中国軍に捕まっても同じ事で、男は衰弱させて反抗できなくし、数十万人の女性が暴力の対象になりました。

朝鮮北部の冬は北海道程度の寒さなので健康でも歩く事は出来ず、1946年の春になってから、ソ連軍や朝鮮人になけなしの現金や金目の物を渡して、ようやく避難民は38度線を目指しました。



日本政府とソ連と冷戦

実は38度線は完全に閉鎖されていたのではなく、朝鮮人は裏道から南北を自由に往来していて、目先の聞く日本人もこうしたルートで38度線を越えていました。

1946年になると収容所の日本人の多くが飢えと病気で衰弱し、これがアメリカとソ連の冷戦外交に利用されました。

アメリカは散々日本人をいたぶってきたくせに「ソ連は非人道的だ」と善人ヅラして非難し日本人を帰国させるよう圧力をかけた。


ソ連は外交問題にならないようにこっそりと、夜中に日本人を列車に乗せたり歩かせたりして、少しずつ38度線を越えるように仕向けました。

集団ではなく少人数でバラバラに帰還させることで、戦争犯罪が表面化しないようにしたのです。

ソ連は1946年10月19日に日本人帰還を正式に発表したが、すでに取り残された人の97%は脱出するか亡くなった後だった。


1946年6月には満州からの正式引揚げも始まったが、略奪や襲撃にあい、多くの人が帰国できずになくなった。

シベリアに抑留された人達は、この後も厳寒の収容所に収容され、ソ連による洗脳教育を受けて、日本に工作員を送り込むため利用された。

中華民国と共産党軍も同様に、拘束した日本人に洗脳教育を施して、帰国後に反政府運動を行うように仕向けました。


帰国したら日本はGHQによる共産主義や反政府暴動の奨励をしていたので、瞬く間に共産主義が一大勢力になり、今日の左翼を形成していきます。

日本帝国が地上の楽園と宣伝して送り出した満蒙開拓団は、ほとんどが中国人やソ連軍に襲撃されてなくなっています。

さらにおかしいのは現在の日本政府の安倍首相に至るまで、こうした中国、台湾やソ連(ロシア)に対して、抗議した事すらないことです。


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