南樺太を占領したソ連軍は、食料・衣類・貴重品など全て日本人から略奪した
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引用:http://ironna.jp/file/5a5942a00b98bf04335b9aa2da72bc03.jpg



敗戦後の外地からの帰国

1945年8月15日に日本は戦争停止を宣言したが、敗戦はすべての日本人が一様だった訳ではなかった。

最も幸運だったのは本土の日本人で、日本に帰国する必要もなく、敵から逃げる必要もなかった。

敗戦国になった時に重要なのは「敵」との交渉力で、これが無いと大変な目に遭います。

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交渉力は数が多いか力が強いか、敵と取引できる何かを持っているのが重要になります。

最も不幸で悲惨だったのは満州国の辺境地帯で開拓していた満蒙開拓団で、ソ連軍の奇襲と中国人の略奪を受けた。

ソ連は8月8日に対日宣戦布告し翌9日から空爆と地上戦を始めたが、日本軍はこの事を日本人居住者に一切知らせなかった。


なぜかというと戦力を維持するためにまず関東軍が朝鮮南部まで脱出しなくてはならず、住民が居たのでは足手まといになる。

それにこの時日本本土から満州の関東軍には、「敗戦時に在外日本人は帰国させず、現地に永住させろ」という命令が来ていました。

日本本土はじゅうたん爆撃で都市が廃墟になり、食べ物もないので大陸の日本人が帰国したら、食料が不足するからでした。


こうした種々の理由で満州在住日本人全員を置き去りにする事が決定されていたので、何も知らせず軍だけが満州から脱出しました。

ただ当時は家族や子供を満州に呼び寄せて住んでいた軍人が多かったので、動揺を防ぐため軍人の家族だけは脱出させました。

満州に残された日本人は100万人以上だったが、数が非常に多かった事が、この人達の命を救った。



南樺太に残された日本人達

数千人や数万人しか居なかったら、おそらく満州の日本人はソ連と中国に粛清されていた筈だが、100万人では秘密に出来ず、国際問題になった。

米ソ間の取引によって満州の日本人は帰国するのだが、帰国者は4分の3ほどで、4分の1つまり25万人ほどが、戦後にソ連と中国によって粛清や略奪でなくなった。

女性はほぼ全員がソ連兵や中国人の略奪対象になり、これを隠すために戦後「日本軍による従軍慰安婦狩り」を創作した。


朝鮮半島南側、後に韓国になる地域に残った日本人は、アメリカ軍の管理下で帰国できたが、北朝鮮地域に残された人達は、ソ連収容所に入れられて、やはり略奪と暴行を受けた。

満州は当時アメリカが支援する中華民国(台湾)に占領されたので、アメリカの口利きで帰国できたが、ソ連とは米ソ冷戦が始まっていた。

ソ連は日本人に略奪行為を働いたのを隠したがり、このため日本人の帰国を妨害し収容所に隔離した。


10万人ほどの日本兵が流刑地であるシベリアに輸送されて、なくなったとも言われている。

北朝鮮に居た日本人も、戦後数年間を生き延びる事ができたら、追放のような形で歩いて38度線を越え、韓国側にたどり着く事ができた。

ソ連は対面を保つため、衰弱した日本人を返すつもりはなかったので、自力で歩けない人は極寒の収容所でなくなるか、途中で倒れてなくなった。


終戦時に樺太(サハリン)の南半分は日本の領土だったので、ここにも45万人もの日本人(と朝鮮人)が住んでいたとされている。

樺太でもソ連軍は8月9日に攻撃開始したが、2万人の日本軍守備隊に対してソ連軍(1万人程度?)は苦戦し、8月25日にやっと南樺太を占領した。

この日付は重要で、8月15日以降も大本営の命令を無視して守備隊は戦い続け、破れたが約15日間の時間を稼いだ。


ソ連との戦闘が始まってから本土への避難が始まったが、多くの日本人居住者が逃げ遅れてソ連軍に捕捉されました。

終戦前後に大半の朝鮮人は日本に避難したが、終戦後に集計したら4000人ほどの朝鮮人が残っていた。

なお戦後に北朝鮮から労働者として4万人ほどが、樺太に強制移住させられていて、多くの情報で「日本軍が強制連行した」と間違って記録されている。


戦前の樺太は真岡、豊原など賑わっていた
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引用:稚内商工会議所写真展http://hit-u.ac/excursion/06Karafuto/0820/RIMG0159.JPG



置き去りになった朝鮮人達

この15日の苦戦でソ連は北海道上陸作戦が不可能になり、アメリカ軍が先に北海道に上陸する事になった。

戦後北海道が日本のままだったのは、樺太守備隊の命令違反(軍規では極刑)と、ただの偶然の結果に過ぎなかった。

樺太を占領したソ連軍は例によって略奪を働き、日本人の家に銃を乱射しながら押し入って「女出せ!」とロシア語で叫んで暴れまわった。


この時のソ連軍兵士の格好は「日本の浮浪者より貧しい身なり」だったとは、満州や樺太引揚げ者が共通して証言している。

ソ連軍は食料も支給していなかったから、やはり日本人の家を襲撃しては食べ物を奪い「日本人はこんな豪華な物を食べているのか」と目を見張ったという。

終戦末期の樺太の食卓が豪華だった筈が無いが、ソ連軍はそもそも兵士に食料を配給せず、住民から奪えと命令していた。


1945年8月22日には日本人避難民を乗せた帰国船3隻をソ連潜水艦が攻撃し、婦女子ら1700人がなくなっている。

潜水艦攻撃は北海道上陸作戦のための海上封鎖と思われるが、今日に至るまでソ連=ロシアは戦争犯罪を認めていない。

こんな樺太の終戦後だったが、40万人以上と人数が多かったのでソ連も全員を粛清できず、日本人は翌年以降に帰国して行った。


取り残されたのが朝鮮人たちだが、強制連行などではなく、全員が自ら希望して樺太に労働や移住に来ていた。

徴用というのも高額報酬で応募が殺到したほどで、全員が自ら希望して志願したものです。

樺太は寒いので日本帝国は労働者に高額報酬を支給し、報酬に釣られた朝鮮人が自主的に樺太で働いていた。


ここで問題になったのが北朝鮮で、ソ連は北朝鮮の宗主国なので北朝鮮に帰国させようとしました。

北朝鮮行きに応じた人も居たが、「樺太に戻りたい」といって脱出する人が続出し、悲惨な暮らしぶりを手紙で書いてよこしたという。

戦前の樺太と比べてすら北朝鮮は最悪であり、以降北朝鮮への帰国を希望する者はいなくなった。


日本人妻や日本人夫と結婚した朝鮮人は「日本に」続々と帰国していったが、朝鮮人の韓国への帰国は、結局ソ連崩壊まで認められなかった。

ソ連と日本の交渉では帰国が何度も決まりかけたものの、必ず北朝鮮が抗議してソ連が態度を豹変させた。

「朝鮮人の祖国は北なのに、なんで傀儡国家(韓国の事)に出国させるのか」という言い分でした。


これが樺太の韓国人問題で、戦後数千人居たと推測されるが、ほとんどは帰国を果たさずになくなりました。

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