韓国は苦し紛れに、前方後円墳は韓国が起源で日本に伝わったと主張した。
その後奈良県などで最初の前方後円墳の原型が発見され、韓国起源は否定された。
2993773c
引用:http://livedoor.blogimg.jp/bungchanblog-kodaishi/imgs/2/9/2993773c.jpg



神功皇后の三韓征伐

戦前には常識だった歴史上の出来事で、戦後に丸ごと削除されてしまったのが「三韓征伐と任那日本府」です。

古代日本は朝鮮半島に出兵し、支配下に置いて国を作ったと、『古事記』『日本書紀』に書かれています。

日本が戦争に負けたことで、歴史上の事実一切が「無かった」と断定され、政治の都合で歴史が改ざんされました。

          スポンサー リンク



戦前の時代には発掘調査があまり進んでおらず、物証が乏しかったのもあって、全てが「帝国主義の妄想」で片付けられました。

だが最近朝鮮半島の考古学調査が進んだ事で、三韓征伐と任那日本府は実在した、と考えるしかない状況になっている。

朝鮮半島の南部では、次々に日本由来の古墳や日本の痕跡が発見され、日本が支配した地域があったのは常識になっている。


記紀(古事記と日本書紀)によると、神功皇后は仲哀9年(西暦200年?)に朝鮮半島に出兵して新羅を降伏させ、高句麗・百済も戦わずに従った。

神功51年(西暦251年?)には百済も日本に朝貢し、これで朝鮮半島の国はすべて倭国(日本)に服従した事になった。

古事記と日本書紀は記録よりストーリー性を重視しているため、特に年代が不正確な事で知られている。


時代が古くなるほど年代は不正確になり、初代神武天皇は127歳、5代目孝昭天皇は113歳、6代目孝安天皇は137歳、7代目孝霊天皇は128歳まで生きたと書かれています。

医学的な立場に立つとこれらは間違いで、特に第9代開化天皇(115歳)までは存在を疑問視する学者が多い。

神功皇后はこれら初期の人々ではなく、第14代仲哀天皇の妻であり、夫の死後に神功皇后が(息子が皇位を継ぐまで)実権を握りました。


仲哀天皇の父は九州から東北までの日本を統一したと伝えられる「ヤマトタケル(日本武尊)」で、神功皇后も開化天皇の家系でした。

当時天皇の妻も皇位継承者の家系から選ばれたので、夫の死後に妻(の一族)が実権を握るパターンは少なくなかった。



任那日本府は実在したか

『日本書紀』によると朝鮮半島南部には、倭国の統治機関として、任那日本府が存在したと書かれています。

任那日本府も日本の敗戦によって「すべて妄想だった」として消し去られたが、続々と日本の痕跡が発見されています。

まずヒスイを原料にした「勾玉」は朝鮮半島から大量に発見されているが、分析の結果すべて新潟県糸魚川の同じ地域の石であるのが確認されています。


次に日本の権力者の墓地である「前方後円墳」が朝鮮半島南部で発見されていて、この地域が倭国の影響下にあったと推測されています。

中国に存在する「広開土王碑(西暦414年)」は高句麗王の業績を称えた石碑だが、倭国は新羅と百済を臣従させたと書かれている。

中国(宋)の宋書倭国伝に438年、倭王が「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」と名乗ったと書かれている。


中国皇帝から見て倭王は天皇で、「朝鮮を征服した大将軍」と名乗っていた事になる。

ヒスイについては輸入したまたは日本が献上したと考えられなくもないが、前方後円墳はどうにもならないので、韓国政府は古墳を破壊して一度消そうとしました。

前方後円墳は10数基が全羅南道周辺の、比較的狭い地域から発見されています。


半島で前方後円墳が建造されたのは5世紀後半から6世紀前半(西暦450年頃から550年頃)で、日本の3世紀から7世紀よりかなり短い。

従って倭国が半島を統治したのはこの100年間程度の期間で、直接統治したのも、現在の全羅南道の狭い範囲だったと推測できる。

記録書でも倭国が新羅や百済を滅ぼしたとは書かれていないので、一時的に服従していただけだと考えられる。


任那の地域から前方後円墳10数基が発見されている
o0800036313934867133
引用:https://stat.ameba.jp/user_images/20170511/16/iiiiiland7iiiiiland/0d/03/p/o0800036313934867133.png?caw=800



倭国の朝鮮支配

任那日本府については、存在したとしか考えられなくなっているが、神功皇后の三韓征伐については物証に乏しい。

ただ記紀に記されている神功皇后の義父「日本武尊」の東征西征については、3世紀から4世紀にかけて、前方後円墳が爆発的に全国に広まった事実がある。

前方後円墳は最初天皇やヤマト政権権力者の墓で、ヤマト支配地域が急激に拡大したのを意味している。


実在が確実視される第10代崇神天皇は西暦300年ごろなので、14代仲哀天皇と妻の神功皇后は西暦350年から400年くらいの人物だった筈でした。

すると「広開土王碑(西暦414年)」に記された「倭国は新羅と百済を臣従させた」にドンピシャリで一致してしまいます。

神功皇后の三韓征伐の結果、任那日本府が設置され、宋は宋書倭国伝に「倭国が韓(朝鮮)将軍」を名乗っている」と書いたなら、全ての辻褄が合います。


ただ辻褄が合うからと言って証明された事にはならないので、今後も議論が続くでしょう。

          スポンサー リンク


          スポンサー リンク