天安門広場を埋め尽くす学生と市民、、向こうに民主の女神像

引用:http://static01.nyt.com/images/2014/06/03/world/04tiananmen-archive-1/04tiananmen-archive-1-videoSixteenByNine1050.jpg
天安門事件の始まり
NHKはかつて「天安門事件はなかった」と言って中国共産党の機嫌を取り、取材で便宜を図ってもらうという不正行為をしていた。
恥ずかしい日本の国営放送はその後も訂正していないが、天安門事件の実態は28年を経て暴かれつつある。
イギリスで最近、1989年6月4日の天安門事件で、1万人以上の犠牲が出たという公文書が公開されました。
英国の駐中国大使は6月5日付けで本国に「犠牲者は最低でも1万人以上」と報告していました。
一方で同じ英大使は6月23日に「犠牲者は2,700人から3,400人」という報告もしていて、かなり少なく修正していた。
また英アジア研究部門は6月14日に「犠牲者は1,000人から3,000人」という報告もしていました。
中国政府は1989年6月に、反革命暴動によって治安部隊数人と市民200人がなくなったとだけ発表していました。
天安門広場で何があったのか時系列で整理すると、事件は学生運動の支持者だった胡耀邦元総書記の追悼集会から始まった。
1989年4月に北京で複数のグループが小規模な追悼集会を開き、やがてひとつにまとまって人民大会堂前でストライキを始めた。
4月21日には10万人以上が天安門広場に集まって政府に抗議し、学生による反政府運動に変化していった。
もっと小規模な抗議運動は数年前から多発していて、共産党首脳部では、過去の話し合いを失敗と捕らえ、徹底した弾圧を決意していた。
共産党はそれでも2ヶ月間ほど、メディアを使った説得や、話し合いで解散させようと試みたが失敗に終わった。
突入前日頃の天安門広場、学生の人数はかなり減っていた。

引用:http://i.huffpost.com/gen/1833616/original.jpg
天安門広場突入まで
当時はソ連邦が崩壊し共産圏が民主化に向かっていて、中華人民共和国の共産党独裁も、崩壊は時間の問題と考えられていました。
学生のリーダーはソ連崩壊に乗じて中国共産党の崩壊を狙っていて、事態は政治動乱の様相を見せていました。
1989年5月には天安門広場周辺の市民や学生は50万人に達し、欧米や日本など資本主義陣営は、民主化を支持する姿勢を取りました。
これが5月前半の状況で、5月後半に入ると学生らは益々勢いづき、100万人規模のデモが北京で行われていました。
5月末には軍による武力介入が警告され、学生らは撤収するか抗議を続けるか投票を行い、このまま抗議を続ける事にした。
5月30日までに天安門広場では民主化を象徴する「民主の女神像」が建てられ、外国メディアに繰り返し写真や映像が報道されました。
女神像は北京中央美術学院の学生らが製作したハリボテだったが、民主活動の象徴となり、共産党は激怒して撤去を要求した。
西側諸国は武力衝突を懸念して5月中に自国民を国外退去させていて、その時に備えていました。
学生のリーダーらは「軍に学生を攻撃させる事で、革命を起こすつもりだった」と話し、最初から学生を捨て石にするつもりだったのが判明している。
6月に入ると北京で戒厳令が布告され外出禁止になったが、学生らはお構い無しに、広場周辺の占拠を続けました。
人民解放軍が天安門周辺に集結し広場を包囲したが、学生の間ではなお、軍は攻撃しないという楽観論があった。
一般の学生は食べ物を兵士に分け与えたり、そういった心の繋がりによって、平和裏に民主化を達成できると考えていた。
戦車はこのように隊列を組んで「障害物」を踏んでいった

引用:https://i.amz.mshcdn.com/qGx0WbTVjspHfiJzHumatTiIeb4=/fit-in/850x850/http%3A%2F%2Fmashable.com%2Fwp-content%2Fgallery%2Ftianamen-square-anniversary%2F158661343_10.jpg
戦車は学生の間を走り回ったか?
最初の衝突は6月3日深夜で、治安部隊がトラックを広場に入れようとしたところ、学生と市民に焼き討ちされました。
人民解放軍が何時にどのように突入したのかは目撃者が居ないが、夜明け前から明け方だったと考えられている。
100万人居た市民と学生は6月3日にはかなり少なくなっていて、写真を見る限り1000人から数千人だったと考えられます。
事件の最中の写真は存在しないが、事件後の写真は数多く撮影されていて、広場で装甲車が走り回ったのは、タイヤ跡から明瞭に確認できる。
そして当時「戦車が広場に突入した」と言われていたが、ネット上の写真ではキャタピラの跡がついているのは広場の外側でした。
天安門広場の外や周辺は広い道路になっているが、広場の外の外周を数十台の戦車が走り回り、広場の外でかなりの犠牲が出たようです。
広場の中にはまず装甲車が突入して走り回り、続いて人民解放軍が突入して学生らを攻撃した。
目撃者を一人も出さないため、その時広場に居た全員がなくなるまで攻撃したと考えられている。
攻撃は1時間ほどで終わり、夜が明けるとすぐにブルドーザーで「ゴミ」を集めて、焼却して片付けたとされている。

引用:http://static01.nyt.com/images/2014/06/03/world/04tiananmen-archive-1/04tiananmen-archive-1-videoSixteenByNine1050.jpg
天安門事件の始まり
NHKはかつて「天安門事件はなかった」と言って中国共産党の機嫌を取り、取材で便宜を図ってもらうという不正行為をしていた。
恥ずかしい日本の国営放送はその後も訂正していないが、天安門事件の実態は28年を経て暴かれつつある。
イギリスで最近、1989年6月4日の天安門事件で、1万人以上の犠牲が出たという公文書が公開されました。
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英国の駐中国大使は6月5日付けで本国に「犠牲者は最低でも1万人以上」と報告していました。
一方で同じ英大使は6月23日に「犠牲者は2,700人から3,400人」という報告もしていて、かなり少なく修正していた。
また英アジア研究部門は6月14日に「犠牲者は1,000人から3,000人」という報告もしていました。
中国政府は1989年6月に、反革命暴動によって治安部隊数人と市民200人がなくなったとだけ発表していました。
天安門広場で何があったのか時系列で整理すると、事件は学生運動の支持者だった胡耀邦元総書記の追悼集会から始まった。
1989年4月に北京で複数のグループが小規模な追悼集会を開き、やがてひとつにまとまって人民大会堂前でストライキを始めた。
4月21日には10万人以上が天安門広場に集まって政府に抗議し、学生による反政府運動に変化していった。
もっと小規模な抗議運動は数年前から多発していて、共産党首脳部では、過去の話し合いを失敗と捕らえ、徹底した弾圧を決意していた。
共産党はそれでも2ヶ月間ほど、メディアを使った説得や、話し合いで解散させようと試みたが失敗に終わった。
突入前日頃の天安門広場、学生の人数はかなり減っていた。

引用:http://i.huffpost.com/gen/1833616/original.jpg
天安門広場突入まで
当時はソ連邦が崩壊し共産圏が民主化に向かっていて、中華人民共和国の共産党独裁も、崩壊は時間の問題と考えられていました。
学生のリーダーはソ連崩壊に乗じて中国共産党の崩壊を狙っていて、事態は政治動乱の様相を見せていました。
1989年5月には天安門広場周辺の市民や学生は50万人に達し、欧米や日本など資本主義陣営は、民主化を支持する姿勢を取りました。
これが5月前半の状況で、5月後半に入ると学生らは益々勢いづき、100万人規模のデモが北京で行われていました。
5月末には軍による武力介入が警告され、学生らは撤収するか抗議を続けるか投票を行い、このまま抗議を続ける事にした。
5月30日までに天安門広場では民主化を象徴する「民主の女神像」が建てられ、外国メディアに繰り返し写真や映像が報道されました。
女神像は北京中央美術学院の学生らが製作したハリボテだったが、民主活動の象徴となり、共産党は激怒して撤去を要求した。
西側諸国は武力衝突を懸念して5月中に自国民を国外退去させていて、その時に備えていました。
学生のリーダーらは「軍に学生を攻撃させる事で、革命を起こすつもりだった」と話し、最初から学生を捨て石にするつもりだったのが判明している。
6月に入ると北京で戒厳令が布告され外出禁止になったが、学生らはお構い無しに、広場周辺の占拠を続けました。
人民解放軍が天安門周辺に集結し広場を包囲したが、学生の間ではなお、軍は攻撃しないという楽観論があった。
一般の学生は食べ物を兵士に分け与えたり、そういった心の繋がりによって、平和裏に民主化を達成できると考えていた。
戦車はこのように隊列を組んで「障害物」を踏んでいった

引用:https://i.amz.mshcdn.com/qGx0WbTVjspHfiJzHumatTiIeb4=/fit-in/850x850/http%3A%2F%2Fmashable.com%2Fwp-content%2Fgallery%2Ftianamen-square-anniversary%2F158661343_10.jpg
戦車は学生の間を走り回ったか?
最初の衝突は6月3日深夜で、治安部隊がトラックを広場に入れようとしたところ、学生と市民に焼き討ちされました。
人民解放軍が何時にどのように突入したのかは目撃者が居ないが、夜明け前から明け方だったと考えられている。
100万人居た市民と学生は6月3日にはかなり少なくなっていて、写真を見る限り1000人から数千人だったと考えられます。
事件の最中の写真は存在しないが、事件後の写真は数多く撮影されていて、広場で装甲車が走り回ったのは、タイヤ跡から明瞭に確認できる。
そして当時「戦車が広場に突入した」と言われていたが、ネット上の写真ではキャタピラの跡がついているのは広場の外側でした。
天安門広場の外や周辺は広い道路になっているが、広場の外の外周を数十台の戦車が走り回り、広場の外でかなりの犠牲が出たようです。
広場の中にはまず装甲車が突入して走り回り、続いて人民解放軍が突入して学生らを攻撃した。
目撃者を一人も出さないため、その時広場に居た全員がなくなるまで攻撃したと考えられている。
攻撃は1時間ほどで終わり、夜が明けるとすぐにブルドーザーで「ゴミ」を集めて、焼却して片付けたとされている。
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