半島で土地を得られなかった人達が渡来し、縄文人に大きな変化をもたらした
渡来は年間数百人から千人という単位で1000年以上続いた。
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引用:https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/9f/abde6a9ae1b8fae5656d8bbafa5a38ae.jpg



渡来人は新天地九州を目指した

縄文時代が終わり弥生時代、古墳時代へ移行する過程で、日本列島は文字や国家を持つようになった。

農耕や鉄・青銅、律令制度や法律、身分制度、軍隊や兵士などどれも縄文時代にはないものでした。

こうした変化が起きたのは弥生時代の約1千年間で、このため「大陸や半島から進んだ文明を持つ人が渡ってきた」と考えられた。

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だが実際はこんなに単純ではなく、古墳時代に至る変化の大部分は渡来人と縄文人が協力したり競争することで成立した。

弥生時代の始まりは水田や弥生集落、弥生土器などで区別されるが、突然始まったのではなく縄文からの移行期があった。

最古の水田は九州の福岡県北部の海岸付近で見つかり、紀元前9世紀ごろとみられている。


最古の水田でありながら水を張るために水平に保たれ、水路や堰などの施設、水耕稲作のための道具なども発見されている。

縄文人が試行錯誤の末に完成させたのではなく、渡来人の集団がやってきて計画的に作ったのは明らかだった。

それでありながら渡来人の水田跡からは朝鮮式の土器はあまり発見されず、大部分は九州産で他の多くは列島産だった。


また渡来人は金属や文字といった大陸の先端文化を持っておらず、石器だけで木材を加工し道具を作っていた。

水田技術を持っていたのを除けば縄文人と同じ程度の技術であり、おそらく朝鮮半島南部から渡ってきた。

紀元前1千年ごろまでに朝鮮南部では畑作農業が普及していて、農耕社会(身分社会)が既に存在していた。



弥生人と縄文人の相互依存

この理由は日本列島の特に関東では木の実や小動物など自然依存の食べ物が豊富だったのに対し、半島は自然が貧しく食料に乏しかった。

縄文人は木の実や動物や魚を採集する生活だったが、半島では食べていけないので畑に作物を植えて収穫した。

水田に関しては半島で始まったのは九州北部より100年ほど前ではないかと言われていて、ほぼ同時期に始まったとも言える。


半島南部ではすでに平野部で畑作が行われていて、水田農業も始まったので、良い土地は有力なグループに占拠されてしまっていた。

この時日本列島は縄文人が暮らしていたが、縄文人は食料が豊富な山間を好み、平野部には居住していなかった。

西日本は植生の違いから東日本の10分の1しか人口がなく、しかも平野部は利用していなかった。


川が流れている平野部の湿地帯は洪水に見舞われるので、縄文人は決して集落を作らなかった。

いわば空き地が無限に広がっていたのが日本列島で、渡来人は縄文人が居ない空き地に田んぼを作っていった。

これが弥生時代の始まりで、両者は争う理由もないし、相互依存的な関係だったと推測できる。


最初の渡来人が水田を作る前から九州北部では「米」が見つかっていて、縄文人が半島と交易で手に入れたと考えられる。

縄文人は最初から米や水田稲作の存在を知っていたし、渡来人と交易することで米などの収穫物を入手した。

これを縄文側から見ると、自然採集に加えて新たな食料調達方法が増えた事になり、むしろ望ましかった。
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弥生人の大戦争時代

初期には友好関係だったと思われるが様相が変わってきたのは最初の水田から100年くらい経った頃で、環濠集落が形成された。

環濠集落は周囲を堀と土塀、柵で囲った村で、防御施設でもあり軍事施設でもあった。

縄文人と弥生人は競争関係にないので、争いは土地を巡る渡来人同士、弥生人同士で起こったと考えられる。


環濠集落は九州から西日本に広がり、「兵士」や「軍隊」が現れて戦争の痕や傷ついた骨などが多数見つかるようになる。

弥生人同士が争う中で縄文人も否応なく巻き込まれ、西日本の縄文人も弥生化して集団農業生活に移行する。

環濠集落を拠点とする大戦争時代は600年ほどで終わり、関東以北に新たな環濠集落はつくられなくなる。


関東以北では環濠集落があまり作られなかったが水田は広がり、東北北部では続縄文時代が続き、弥生時代は来なかった。

渡来人を中心とした弥生集落は九州から大阪までで、関東では在来の縄文人主導で水田が広まったと考えられる。

東北にも水田は作られたが、採集生活も続けながら、副業として水田を作り米を得た。


弥生人の兵士、弥生人は土地を巡って弥生人同士で戦った
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引用:アウトドア・ライフ&バラエティhttps://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-cf-49/estima_tcr10000/folder/925413/34/29778034/img_0?1320839465



渡来は1千年以上続いた

東北のような寒冷地では米という1種類の食料に依存するのはハイリスクであり、多くの種類にリスクを分散したほうが良かった。

渡来人の集落が多いのは大阪付近までなので、関東では縄文人が水田技術を取り入れて弥生人の移住を受け入れたと考えられる。

東日本は縄文人が多く、平野部も完全に無人ではないし、そこに弥生人が大規模な水田を作れば大戦争は避けられない。


だが関東で弥生人と縄文人と全面戦争の痕跡はなく、水田と大規模集落が増えて行った。

弥生時代後半になると西日本にも新たな環濠集落は作られなくなり、東日本を中心に人口爆発が起きました。

縄文末期の列島の人口が8万人足らずだったのに、弥生末期の西暦200年ごろには60万人に増加し、しかも人口の中心地は関東でした。


この過程は弥生人が関東を征服したのではなく、縄文人側が積極的に農業を取り入れて弥生化したと考えると合理的です。

縄文人は採集生活をやめて農耕を取り入れ、この結果家族単位から数百人の集団生活、集団労働に移行しました。

社会はシステム化され縄文土器のような「アート作品」は消滅し、大量生産の同じようなものが大量に出土するようになります。


この間にも毎年数百人、千人単位で半島南部から渡来人が渡ってきたと考えられ、例えば毎年千人の渡来が1千年続いたら合計100万人にも達します。

この大量の渡来が日本列島の人種構成に変化をもたらし、各地に移住したり交じり合って縄文人から弥生人、そして古墳時代人に変化した。

大量に渡ってきた渡来人の多くは半島や大陸で「食えなかった」人達で、支配層の人々ではなかった。

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