築造時は外堀が500m近くあったが、西暦250年には、まだ巨大前方後円墳がなかった
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画像引用:魏志倭人伝の夢コラムhttp://29.pro.tok2.com/~kyokutan/public/cgi-bin/04c_o_l_u_m_n/data/upfile/36-1.jpg



利害関係からむ卑弥呼論争

古代史のスターである卑弥呼は定期的に話題になり、2018年も卑弥呼の墓をめぐる発見がありました。

奈良県桜井市の箸墓古墳は候補の一つとされていて、新たな年代測定の結果が示された。

箸墓古墳の年代は古い派(西暦250年前後)と新しい派(西暦350年以降)が激しく争い、考古学を超えた憎悪に発展しています。

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新しいか古いかは卑弥呼の墓であるか無いかに直結するので、観光業界や県の利害関係者も加わっています。

卑弥呼がなくなったのは西暦250年頃なので、もし400年頃築造だったら卑弥呼の墓である筈がありません。

すると「卑弥呼の墓」として観光客にアピールできなくなるので、奈良県や観光業界は250年説を推しています。


これを裏付けるように2018年春、箸墓古墳から採取したモモの種の年代が3世紀つまり西暦200年代と発表された。

同じく西暦200年代の土器も発見されているが、土器や桃の種は持ち運びできるうえ、放射性炭素年代測定は正確でないという指摘がある。

仮に箸墓古墳の築造が250年だとすると、他の古墳や前方後円墳の年代とまったく合わない。


一般的には最初の前方後円墳が登場したのは西暦300年以降で、最初小型で不完全な形状をしていた。

前方後円型になる前は円墳つまり丸い山で、周囲に濠ができ、通路や祭祀場として四角が追加されホタテ型になり、大型化してはっきりした前方後円墳になった。

大型の特徴的な前方後円墳が量産されたのは西暦350年以降で400年代に全盛期を迎え、その後は小型化する。



箸墓が卑弥呼の墓である可能性は低い

最大の前方後円墳は仁徳天皇陵(大仙陵古墳)で墳丘長525m、箸墓は墳丘長278mだが現存しない外堀の長さは400m以上でした。

もし西暦250年だとするとようやく最初の小さな前方後円墳が出来始めるころ、突如最大級の前方後円墳が登場したことになる。

これはあまりに不自然なので、反対派は西暦350年以降だろうと反論しています。


また魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓とは大きさや埋葬品がまったく異なり、特に奴婢がなく埴輪と馬具が出土しているのが致命的です。

魏志倭人伝に書かれた邪馬台国では奴婢をいけにえにして卑弥呼の墓に埋葬したが、箸墓古墳では発見されていない。

いけにえを廃止して埴輪を埋葬するようになったのだが、箸墓古墳で大量の埴輪が発見されている。


また邪馬台国には馬が居なかったが、卑弥呼の墓からは馬具が発見されています。

一部の出土品の年代測定では西暦250年前後だが、その他の物証では350年以降と推測できる。

魏志倭人伝に書かれている邪馬台国の場所はいいかげんで信用できないが、馬が居ないのといけにえの習慣は特徴的です。


これらを考え合わせると、箸墓古墳が西暦250年ごろに築造された卑弥呼の墓というのは無理がある。

また卑弥呼の邪馬台国が奈良県だったら、卑弥呼に該当する人物が古事記や日本書紀に存在しないのも不自然です。

むしろ発見されていない初期の天皇の墓である可能性の方が高い。


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