突入前日頃の天安門広場、少なくとも1000人以上の学生が残っていた
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引用:http://i.huffpost.com/gen/1833616/original.jpg



天安門事件を消したい中国共産党

1989年6月4日の天安門事件は今も謎に包まれているが、国外逃亡者によっておおよその事は判明してきている。

謎に包まれているのはその時天安門広場に居た者全員が人民解放軍によって葬られたからで生存者は居ない。

前日までに撮影された写真などからは、突入時に1千人から3千人の学生が広場で座り込みをしていた。

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6月3日深夜に最初の衝突があり、軍は最初トラックを広場に入れようとしたが、学生や市民の妨害で撤退した。

これが引き金になって6月4日未明に軍は装甲車を広場に突入して兵士に銃撃させ、広場の外では戦車を走り回らせた。

戦車部隊は広場には突入しなかったので、広場内ではタイヤ痕、広場外ではキャタピラ痕が残された。


広場内に居た人は全員がなくなり、夜明けとともにブルドーザーで掃除を始め、昼前にはトラックで残骸を運び出した。

中国共産党は広場内の痕跡を完全に消し去ることで、天安門事件はなかったというストーリーを創作しようとしました。

だが突入寸前に広場から脱出した学生や、突入後に広場に戻って生存者を探した人たちによって、事件の存在は隠せなくなった。


中国国内で天安門事件について語ったり、ネットに書き込んだりすると、公安に連れ去られて人知れず「処分」される。

中国にとって天安門事件は教訓になり、事件後に民主化や解放をやめてしまい、独裁経済による発展を目指すこととなった。



事件前は日本ブームだった

天安門事件前の中国は改革開放ブームで沸いており、すぐにでも西側のように民主化されるという期待が高まっていた。

1978年12月に鄧小平が「市場経済への移行と民主化」つまり改革開放を宣言し、これが学生民主化運動に火をつけた。

それまでタブーだった毛沢東批判を政府上層部がするようになり、学生や市民の間でも政府批判が公然となされるようになった。


1966年から1976年までの文化大革命とその前の大躍進政策によって、数千万人(1億人以上の説もある)もの人が犠牲になり、中国人は貧困のどん底だった。

毛沢東の共産主義革命は大失敗に終わり、共産主義こそ中国人を貧困に貶めたのは明らかでした。

各地の大学では「共産主義打倒」が叫ばれて民主選挙による民主政府の樹立を求める運動が広まりました。


中国政府では路線対立が起きていて、市場経済や民主化するべきだという勢力と、あくまで共産主義独裁を続ける両派が対立していた。

この頃の中国は日本ブームでもあり、アジアでいち早く発展し先進国になった日本への関心が強かった。

NHK「おしん」は中国でもブームになり、山口百恵や高倉健を知らない中国人は居ないと言われるほど人気だった。


平成天皇は自ら希望して訪中し、天安門もみ消しやチベット侵略、ウイグル弾圧にも加担してしまった。
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画像引用:https://www.newsweekjapan.jp/stories/assets_c/2015/08/endo20150831-thumb-425x288-79604.jpg



天安門事件隠しに協力した日本人

中国が慰安婦や南京や過去の侵略で騒ぎ始めるのは天安門以降のことで、事件と深い関係がありました。

中国共産党はキャタピラと戦車で学生数千人を踏み潰したが、国民の不満を何かで解消する必要がありました。

目を付けたのが「日本軍」で、過去の日本軍の蛮行をでっち上げて、現在の日本も「侵略者」で帝国主義だと批判しました。


テレビや映画でこれでもかと毎日「日本軍の蛮行」を放送したので、中国人はこのでっち上げを真実と信じ込んだ。

「これほど凶悪な日本軍から中国人を守ったのが、我らが毛沢東と共産党である」となり国民の共産党支持は回復した。

これで共産党のジジイどもは安泰になったが、割を食ったのは日本人で世紀の大悪人に仕立て上げられた。


これが天安門事件とその後の反日運動の顛末で、天安門隠ぺいと日本の犯罪でっち上げに加担したのは河野太郎外務大臣の父親の河野洋平でした。

残念なことに平成天皇も天安門隠ぺいに加担し、自ら希望して中国を訪問し対中制裁解除に協力し、やってもいない「過去の侵略」に謝罪までしました。

そしてNHKは「天安門事件はなかった」という特集番組まで制作し、国民を騙して中国共産党に協力しました。


中国にとって平成の30年間は、意のままに日本左翼を操った時代だったと言える。


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