聖徳太子は女性天皇の下で活躍した
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2人に1人が女性天皇の時代もあった

新天皇が即位して再び女性宮家や女性天皇の議論が活発化しています。

現在は男性のみ天皇になれると規定されているが、かつては女性も普通に即位していました。

もっとも多かった頃は即位した天皇の2人に一人が女性だった時代もあり、女性天皇ブームと言えるほどでした。

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ある時期から女性天皇が消えた理由は、極めて評判が悪い女性天皇がいたため、「女性は天皇に向いていない」という考えが広まったためでした。

日本では公式に即位した女性天皇は8人で、西暦593年から1770年まで約1100年間に渡って即位しています。

この中の第33代推古天皇から48代称徳天皇まで、推定西暦600年頃から764年まで、女性天皇が特に多かった。


この間即位した16回のうち8回が女性、重祚(何度も即位する事)が2回あったので人数としては6人が女性だった。

その前にも22代の後に飯豊天皇、14代の後に神功皇后が天皇として政治を行ったが、まだ天皇は男性に限るとされていたので正式な即位はしていない。

女性天皇が正式に即位した最初の例は推古天皇で、有名な聖徳太子が皇太子として実際の政治を行った。


33代推古天皇の父は29代欽明天皇で、この間に男子である兄らが即位し、夫の33代敏達天皇が崩御していた。

弟の32代崇峻天皇は蘇我馬子に暗殺されてしまい、蘇我馬子に請われて史上初めて女性天皇として即位した。

推古天皇は甥の聖徳太子を皇太子とし、仏教導入や十七条の憲法、遣隋使の派遣など輝かしい実績を挙げた。


推古天皇と聖徳太子の大成功で女性天皇の全盛期を迎え、35代皇極天皇(斉明天皇)が即位した。



女性天皇が禁止になったきっかけ

皇極天皇は34代舒明天皇の妻で、この頃から「夫から妻」という代替わりが普通になっていった。

皇極天皇の息子は中大兄皇子で、唐と新羅相手に「白村江の戦い」を行い、敗れはしたがこの時から日本は大陸中国と永遠のライバルになった。

皇極天皇の時代に中大兄皇子は「大化の改新」を断行し、部族的な集合体だった日本列島は天皇を中心とした中央集権国家に変貌していく。


こうして女性天皇は優秀な摂政や皇太子を働かせることで華々しい成果を挙げたが、次第に問題点も明らかになってきた。

問題の一つ目は女性は自分が生んだ子供しか後継ぎがいないので、結婚しなかったり子供を産まなければ子孫が絶えてしまう。

2つ目の問題は好悪の情や好き嫌いが激しく、人のえり好みをしたりえこひいきが酷かった。


自分が好きな男性だけを周囲に集めてクラブかサロンのようにしてしまい、嫌いな人は一切近づけない。

こうした問題が一気に噴き出したのが46代孝謙天皇(称徳天皇)の時でした。

父の聖武天皇には男子の子がなく、一人娘として女性皇太子になり、31歳の時に父から譲位されて孝謙天皇となった。


孝謙天皇は結婚せず子供もなかったが、後継者争いには口を出し親戚筋にあたる淳仁天皇に一度は譲位した。

上皇になってからむしろ女帝として振舞うようになり、清国の西太后のような存在に変わっていった。

やがて淳仁天皇は孝謙天皇のお気に入りではなくなってしまい、取り巻きの一団にクーデターを起こさせ、自らが再び称徳天皇として即位した。


御所は混乱を極めたが称徳天皇は取り巻きに「お気に入りの男子」だけを集めて政治を行い、嫌いな者を遠ざけた。

称徳天皇は「いじめ」も大好きで、嫌いな者を「下女」や「鈍い」のような意味の名前に改名させたという。

これ以降御所では「女性天皇はタブー」になり、江戸時代に一人即位しただけとなっている。


孝謙天皇の評判がもう少しマシであったら、今も女性天皇が続いていたかも知れなかった。

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