朝鮮末期の迎恩門、実際にこの下で朝鮮王は下級役人に土下座した
迎恩門



朝鮮や琉球は国ではなく「自治体」だった

韓国人および北朝鮮人は日本には居丈高に振舞うが、中国に対しては服従姿勢を見せると言われている。

経済問題でも領土紛争でも歴史問題でも、韓国が日本に対する態度と中国に対する態度は180度違う。

例えば日本は35年間の朝鮮統治で鉄道や水道や農業や工業に(日本人の税金で)投資して近代社会を作り上げた。

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朝鮮時代に700万人台だった人口は1945年に2500万人まで急増したが、近代農業で食料の大増産を行い一人の餓死者も出さなかった。

だが南北に分かれて独立した後の韓国、北朝鮮では、それぞれ数十万人、数百万人の飢餓や疫病、内戦による死者を出した。

日本統治以前の朝鮮は西暦650年から唐の冊封を受け、公式には唐の地方政府という位置づけでした。


この事は南北朝鮮の歴史家や教科書は無視しているが、消せない事実なので書いておかなくてはならない。

日本の世界史教科書では冊封体制とは「貿易のようなもの」で、互いにプレゼントの交換をして仲良くする事だ、のように書いてあります。

とんでもない間違いで、冊封とは皇帝の家臣になることで、冊封したら独立国家でなくなり王でもなんでもないのです。


よく沖縄の人は中国との冊封体制を対等な関係や、相互扶助的な関係だったと言いたがるが、これも間違いです。

冊封された琉球王は皇帝の家臣の一人に過ぎず、役人として琉球の王を任命された人に過ぎない。

ある日皇帝の使者がきて「お前は明日からゴビ砂漠のどこそこ村勤務を命じる」と命じられたら行かねばならないのです。


これは国でも王でもなく中国の役人に過ぎず、琉球や朝鮮が国だったなどというのは自己流の歴史でしかない。


三跪九叩頭の礼の再現写真、朝鮮王もこのようにしなければならなかった
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引用:https://stat.ameba.jp/user_images/20130915/10/sebastune/ab/82/j/o0480034212684022614.jpg



三跪九叩頭の礼とは

琉球には守礼門、韓国(朝鮮)には迎恩門があり、守礼門は壊れたが再建されて首里城の前に建っている。

中国皇帝の使者を出迎えるために作った門なのだが、この門が冊封体制では非常に重要な意味を持っている。

琉球王も朝鮮王も正式な身分は皇帝の使用人で、中国の役人の一人に過ぎないのは説明しました。


それぞれの王が代替わりした時や、皇帝が代替わりした時、大陸で重大な変化が起きた時には「解雇」されるおそれがあったのです。

皇帝の使者がやってきて「おまえクビな」と言えばその日から琉球王や朝鮮王でなくなり、門番や土嚢運びをやらされるかも知れません。

そうならない為に王は大陸の作法に従って、最大限の敬意を皇帝(の使者)に示さなくてなりません。


歴史書には「王は使者を三跪九叩頭の礼で迎えた」と簡単に書いていますが、簡単なのは詳しく書くと差しさわりがある為です。

朝鮮王や琉球王は守礼門や迎恩門に土下座して使者を迎え、雨だろうが泥んこだろうが頭を地面にこすりつける。

皇帝の家臣は皇帝の前で土下座し、地面に9回頭を叩きつけて、忠誠心を示すことになっていた。


それだけでは足りないと思ったのか、歴代の朝鮮王は「どうぞ私を処刑してください」と使者に懇願する。

自分の命すら投げ出すほどの忠誠心を示すことで、再度朝鮮王に任命してもらいたかったのです。

朝鮮王はこれを西暦650年の新羅王から、日清戦争で日本が勝った1895年まで続けていました。


冊封をやめた理由は「下らないから辞めろ」と日本が命じたからで、日本が統治しなければ今も続けていたかも知れない。

1200年間続いた冊封は朝鮮や韓国の文化になっていて、中国に土下座して許しを請うのが正しいという道徳心にまで昇華している。

日本やアメリカなどに過剰に反発するのは、主人である中国に逆らえないので、不満のはけ口なのでしょう。

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