信長は能力重視、家康は譜代の忠臣を重用した
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信長の作った競争社会

日本史の中で信長、秀吉、家康はよく比較されるが、この3人は働き方の考え方も大きく違っていた。

信長は年功序列だとか既得権を激しく嫌い、能力がある者は誰でもすぐ出世できるようにした。

そのくせ信長自身は織田信秀から家督相続したのが最大の矛盾で、これが後に信長を滅ぼしてしまう。

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信長は織田信秀がなくなった後弟や親族と跡目争いを展開し、親族と骨肉の争いを展開した末に織田家を手に入れた。

その統治方法は能力がある者は誰でも登用するというもので、木下藤吉郎という流れ物を登用し近くに置いた。

藤吉郎は商売や交渉事や人心掌握に長けていて、見る間に織田家の重臣に出世し織田家のNO2になった。


織田家家臣には明智光秀も登用されたが木下藤吉郎と違い清和源氏の家系で、先祖は清和天皇の皇子・諸王とされている。

信長は能力が低いのに地位だけが高い部下を嫌い、林秀貞、丹羽氏勝、安藤守就、佐久間信盛ら譜代の忠臣達を追放している。

彼らは若い頃にはかなりの功績があったが年老いて働きが悪くなったため、信長が若返りを図ったとも言われている。


織田家は例え能力が高くても年を取れば追放され、能力が低ければ若くても追放されるという厳しい競争社会です。

これだと木下藤吉郎=秀吉のような流れ者にはやりがいがあるが、柴田勝家のような先代からの忠臣や明智光秀のような名門の子には地獄だったでしょう。

結局信長は天下統一を目前にした天正10年(1582年)6月2日、明智光秀に襲撃され本能寺でなくなった。



家康が作った年功序列社会

現代の日本は競争社会と言われるが、まだまだ旧態依然とした年功序列制度や既得権が社会の隅々まで残っています。

この年功序列制度や世襲社会を作ったのは徳川家康で、かれは譜代の忠臣だけを重用し「よそもの」を徹底的に排除しました。

家康の価値観をつくったのは人質として過ごした少年時代で、彼はそこで信用できるのは譜代の忠臣だけだと学習しました。


竹千代(家康)の松平家は今川義元の今川家の家臣でしかなく、幼少で母は離縁し4歳で今川に人質に出された。

だが見送りの義母の父が裏切って織田信秀に引き渡され、そこで2年間拉致監禁のような生活を送った。

2年後に今川と織田の人質交換で今川の手に渡り、12歳で今川の娘と政略結婚させられ15歳で今川方の武将として初陣に参加した。


17歳の時に今川義元が尾張に攻め込み、桶狭間の合戦では今川方で参加するが、義元が打ち取られて戦場から逃亡するように逃げ出している。

義元死去のどさくさで家康は初めて松平家の岡崎城に当主として入場し、今川の家臣から独立した大名として旗揚げした。

ここまで家康が人質人生で会得したことは、どんなに親切にされても「よそもの」は絶対信用できないという事でした。


他人が人質に親切にするのは利用したり騙したり、命を奪ったりするためでしかありません。

家康は三河以来つまり先代からの忠臣はどんなに無能であっても絶対に追放せず、一方よそものはどんなに有能でも登用しませんでした。

関ヶ原の合戦で最大の功労者になった小早川秀秋を裏切り者として忌み嫌い、2年後に早世すると小早川家を取り潰しにしています。


一方で最後まで徳川に歯向かった上杉景勝は敵ながら優遇し、米沢藩として存続を認めている。

家康の考えに基づいて徳川幕府は世襲を重視し、転職や自由競争のような概念を排除した。

江戸時代が終わった後も家康の意思は受け継がれ、日本では政治家や多くの職業で世襲が多い。

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