戦前の首里城は1700年代に薩摩が建設したので、城というより大きな寺の形をしている
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画像引用:https://pm1.narvii.com/6459/7e043505c11f74a086e97643fccebb47ef2ed01a_hq.jpg



初期の首里城の様子は分かっていない

10月31日に焼失した首里城は過去に4回焼失し(今回で5度目)、記録に残っている5つ目の首里城でした。

5つの首里城の大半は幕府や薩摩の支援で建設するか、日本政府が保存したり再建したものでした。

一度目の焼失は1453年(享徳2年)で日本は室町時代後期、琉球の王位をめぐる内乱で首里城が戦場になった。

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最初の首里城の建物は記録に残っていないが、その性格からかなり小さな建物だったのではないかと想像します。

首里城は山そのものが防御陣地で周囲を石垣で囲った形態で、木造建築物は戦時には役に立たない。

これは戦国時代から江戸期の日本の城も同様で、天守閣は権威を示すためや、せいぜい平時の「県庁」のようなものでした。


一度目の焼失後に再建された首里城を朝鮮の使者が目撃し、史書に記録が残されました。

内城は2層3階建てで王が居住し、侍女が100余人もいて3階は宝物庫、1階は宴会場だったと記録されています。

当時の3階建てなので面積は広くてもあまり高さは無く、その後の首里城よりは小ぶりだったでしょう。


二度目の焼失は1660年(万治3年)で日本は徳川幕府の江戸時代前期で薩摩の琉球侵攻の後でした。

再建は薩摩と幕府が支援し日本の寺社風の建物になり、瓦屋根になったのもこの時でした。

この頃琉球には大きな木造建築をつくる木材が不足したので、材料も九州や本土から集められた。



江戸以降の首里城は日本の木材で作られていた

3つ目の首里城の瓦屋根は黒い色で、奈良や京都の寺社に近い様式だったと考えられます。

三度目の焼失は1709年(宝永6年)、日本は江戸時代中期で琉球は財政破綻していて再建する力はありませんでした。

この頃の琉球は薩摩と幕府の支援で支えられていて、琉球の木材も枯渇していたので薩摩から木を運んで建設した。


薩摩の琉球支配で人口が増えたので、燃料となる薪を得るため住民が木を伐採したため木が無かったのです。

特徴的な赤い瓦屋根はデザイン上の理由ではなく、瓦を焼く燃料の木材が無かったので、低い温度で焼くと赤く脆い瓦になる。

4つめの首里城は薩摩から4万本もの木材を運んで建設し、薩摩は代金を受け取っていない。


江戸期の木材は現在の10倍以上もの価値があり、城を作るほどの木材はさらに高価なものだったでしょう。

この時再建された首里城は昭和20年まで存在し、戦後に再建した時も薩摩が再建したものを再現したものです。

昭和20年(1945年)には沖縄戦で米軍艦の砲撃を受けて4度目の焼失、米軍による焦土化作戦で沖縄全体が廃墟になった。


1972年(昭和47年)に沖縄が本土復帰し、日本政府は沖縄領有を正当化するため、沖縄への投資を始めた。

当時中国と台湾が対立し両方の中国は沖縄の領有権を主張するなどしたため、日本は沖縄を重視し積極的に予算配分しました。

首里城などの史跡再建もその一つで、1970年代から復興が始まり1989年(平成元年)に首里城再建が始まった。


1992年(平成4年)に5つ目の首里城が完成し首里城公園として開園し現在に至っている。

2019年10月31日に5度目の焼失があり、正殿など中心部の建物の多くがなくなりました。



琉球を支えた徳川幕府と薩摩藩

戦後沖縄を領土にせんとする共産中国が目を付け、大学やメディアを通じて破壊工作をしかけてきました。

日本と沖縄を離反させて引き裂き、独立運動や暴動を起こさせたのち、中国軍が沖縄を乗っ取るという戦略です。

日本に対してはあらゆる事が悪事とされ、中国に対しては対等な関係だったとか父親のような存在だと教えた。


琉球は中国の冊封に入っていて、冊封とは入った時点で国として消滅し、王が皇帝の家来になる事です。

皇帝は王から貢物を貰ったり搾取するだけで、間違っても「対等な関係」ではありません。

琉球は中国に朝貢するが皇帝からは僅かな返礼しかなく、要するに「みかじめ料」と同じで貿易ではありません。


琉球は八重山地震などで壊滅し朝貢する贈り物を用意できないので、幕府や薩摩からの援助物資を横流ししました。

幕府は怒って琉球に援助物資横流しを辞めるよう要請するが、薩摩や清との複雑な関係もあって幕末まで続けられた。

中国皇帝から琉球には返礼などはなく一方的に搾取しただけで、琉球から皇帝への朝貢品は幕府が払っていたのです。


1660年、江戸初期の焼失は1609年の薩摩侵攻の後だったので、首里城は日本風の大きな建物になり再建は薩摩藩が支援した。

1709年にまた焼失しこの時は全面的に薩摩が支援し4万本の木材を無償援助し、今日まで写真が残る巨大な建物になった。

1771年には八重山地震があり琉球は破綻し貧困にあえぎ、また薩摩と幕府が支援して支えました。


琉球が大陸やアジアとの貿易で栄えたのは江戸時代より前で、江戸期にはもうそんな時代は終わっていました。


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