拍手!2拍手!3拍手!4拍手! (記事が良かったら拍手しよう)
読み込み中...
スポンサーリンク

失敗作と言われた零式戦闘機 日中戦争から太平洋戦争まで活躍

十二試艦戦の1号機、この場所ではステルス戦闘機の試験機も制作された
7446b183bf9dec2f39e7c59f68a1815b
引用:http://media-cache-ec0.pinimg.com/736x/74/46/b1/7446b183bf9dec2f39e7c59f68a1815b.jpg

零式艦上戦闘機、通称ゼロ戦は現在では傑作機と呼ばれているが、試作機でのテストでは旧式戦闘機に惨敗し不合格の烙印を押されていた。

だが海軍は航続距離の長い戦闘機を必要とし、改良の結果最強の戦闘機になっていく。

欧米を圧倒する重量級戦闘機

96式艦上戦闘機に代わる新型戦闘機の要求が昭和12年5月に海軍から提示された。

速力、火力、上昇力が欧米戦闘機と同等で、航続力が特に優れている事という滅茶苦茶な要求だった。


十二試艦上戦闘機(A6M1)は昭和14年3月に2機生産されて、ベテランの開発パイロットらによって評価試験を受けたが、不評の嵐、ボロクソだった。

エンジンは三菱瑞星13型(14気筒空冷式複列星型)780馬力だが出力が足りず、最高速度はまあまあだが上昇力と運動性が劣っていた。

武装は97式7,7ミリ固定機銃3型改1を2連装し各600発を搭載した。

99式20ミリ1号固定機銃1型改1も2連装し各60発を搭載した。

口径が違う銃弾は発射したときの弾道も違うので、戦闘機用の機銃としては口径を揃えるのが基本とされている。

十二試艦戦の2種類の機銃は狙いを付け辛く不評だった。

設計思想としては銃弾を大量に搭載できる7,7ミリ機銃を主に用いるが、これだけでは重装甲化する爆撃機を撃墜できない恐れがあるので、20ミリ機銃で止めを刺すつもりだった。

翼幅12m、全長8309mm、全高3509mm翼面積22.44㎡で、後の時代では軽量小型とされているが、十二試艦戦の時には、これまでで最も大型の戦闘機だった。

こういう事は当時の人の立場で考えないと認識を間違う元になるが、零式戦闘機は重量級戦闘機でした。

また零式戦は搭乗員の防御をまったく考えていなかったと、やはり戦後の発想で言われているが、これも間違いで開発当時は最も搭乗員に配慮していた。

何しろその前は操縦席を覆うガラスすら無かったし、世界的に見てもその程度だった。

96式戦闘機には操縦席を覆うカウリングが無く、小型軽量で運動性が優れていたが、快適性や搭乗員保護は考えていなかった。

雨が降れば操縦者はずぶ濡れで、上空では外気で凍えながら戦っていたが、零式戦以前はそれが普通だった。

海軍が大型戦闘機を求めたのは、日本軍が中国内陸部に進軍し、片道千キロもの距離を飛行して、爆撃機を護衛する必要が出てきたからだった。

また欧米と戦争になれば、広大な太平洋が戦場になり長い航続距離が必要になると考えられた。

十二試艦戦には可変ピッチプロペラ、引き込み脚、特徴的な長い主翼、増加タンク、抵抗の少ない流線型の機体等、それまでの戦闘機に無い特徴が有ったが、全て航続距離を伸ばすためだった。

同時にこれらの装備は重量増加につながり、戦闘機としての性能を低下させた。

昭和14年4月1日に初飛行し、2機の試作機で実機試験が行われた。

最初搭載された三菱製の瑞星13型はどうしようもない低性能エンジンで、テストパイロットの評価は「不可」だった。

96艦戦との模擬戦闘でも初期の十二試艦戦は1回も勝てなかったとされている。

当時の戦い方は戦闘機同士が1対1でクルクルと旋回しながら追いかけあう格闘戦で、小回りが効く軽量戦闘機が有利だった。

こうして失敗作の烙印を押された十二試艦戦は、ここまま消え去るかに思えた。

零式戦の優位性によって日本は太平洋の半分を手中にしたが、通用しなくなると敗戦を重ねた
5040_1
引用:http://j87.net/real-eienno0_net/22/panel135/media/5040_1.jpg

中国大陸から太平洋へ

十二試艦戦3号機以降のエンジンは、敵対するライバルメーカーの中島・栄(12型940馬力)に換装された。

十二試艦戦の設計者は東大工学部出身の堀越二郎で、欧米の航空先進国に国費で1年以上も視察旅行をするようなエリート技師だった。

十二試艦戦の設計を始めた昭和12年には34歳で、最も脂が乗り切って充実していた時期だった。

この仕事で燃え尽きたのが、零式戦以降は目立った活躍は無く、戦後はYS-11の開発準備に関わったくらいだった。

開発が開始された昭和12年に日華事変が起こり、日本軍航空隊は漢口から中国内陸部まで出撃するようになった。

十二試艦戦に与えられた使命は中国沿岸部から離陸して、往復2000キロを飛行し、敵戦闘機を撃墜する事だった。

中島製の栄エンジンを搭載した十二試艦戦は別な戦闘機に生まれ変わり、当時の戦闘機の世界最高速度を記録している。

昭和15年に十二試艦戦は正式採用され、零式戦闘機となり、零式戦11型が中国に派遣された。

戦時中の日本での呼び方は「ゼロ戦」と呼ぶ人は少なく「零式戦」や「零式艦戦」と呼ぶ事が多かったようです。

軍事機密だったので一般の国民は、この戦闘機の存在すら終戦まで知らされなかった。

当時の中国軍は中華民国軍、現在の台湾軍だが内陸部に引っ込んで、住民への犯罪行為を働き重慶を拠点に日本軍に対抗していた。

当時の写真を元に中国が「日本軍が行った」としている犯罪は、全て中華民国軍(台湾軍)と毛沢東軍が行った行為です。

昭和15年、12機の零式戦は漢口から重慶まで往復1500キロを飛行し空戦を行って帰還し、この後太平洋戦争に投入されていく。

日華事変での実戦経験から日本軍は零式戦が欧米戦闘機を圧倒できると判断し、昭和16年の開戦を決断したとされている。

当時も現在も戦闘機が劣勢では勝つ見込みが無いが、零式戦が米軍戦闘機を圧倒するなら勝算があると考えた。

いずれもっと優れた戦闘機が登場するが、その前に戦争は終結している筈だった。

零式戦の開発には3年掛かっており、戦闘機の開発にはこのくらいの期間が掛かるのが常識だった。

だが現実の戦争は4年間続き、しかも数ヶ月単位で双方が新型戦闘機を投入するような技術競争になった。

零式戦闘機の優位は開戦翌年には圧倒的ではなくなり、2年後には陳腐化してしまった。

その後の経緯は良く知られている通りです。

タイトルとURLをコピーしました