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ルノーが日産の議決権増やし「対等な関係」へ フランス政府に反発

戦前、日産は優れた国産車を作っていたが、そのためGHQに生産を禁止された。
この時の制度が結局日産を倒産寸前に追い込み、ルノーに買収された。
nnS10ado
引用:http://3.bp.blogspot.com/-L37t24AfbvI/UNncicAy_mI/AAAAAAAAJM0/goY5dXRan6M/s1600/nnS10ado.jpg

フランス政府はルノー国営化を企んでいて、ルノーの子会社の日産も支配下に置こうとしています。

ルノーは反発し、日産を「独立」させて政府に対抗しようとしている。

ルノーへの日産の議決権増加

フランスのルノーは日産との提携関係を見直す事を決め、互いの持ち株比率を変更する決定をしました。

ルノーは6日の取締役会で、ルノーを国営化しようとするフランスへの対抗策を話し合い、日産の議決権を増やす方向になったもようです。

今までルノーは日産株の43%を保有していたが、日産はルノー株の15%を保有していました。


フランスでは政府が、2年以上株式を保有する大株主は、2倍の議決権を得る法案を成立させ、多くの企業を事実上の国営化しようとしています。

フランス政府はルノー株の14%を保有しているので、法案施行後の2016年春からは28%の議決権になります。

ルノー取締役会は、日産が保有する15%の株式にも2倍の議決権を与える事で30%の議決権を与えて、国営化を防止したい。

だが「議決権2倍法」は40%の以上の株式を保有する子会社が持っている分には適用されず、ルノーが43%を保有している日産は子会社に当たる。

ルノーが日産株を3%売却して40%にすれば、フランス政府を上回る割合を日産が保有し、日産はルノーの子会社なのでルノーの独立性が保たれる。

「議決権2倍法」はその会社の株主総会で3分の2が反対すれば否決できるが、今年の総会では反対約60%に止まり、ルノーに適用される事になった。

欧州の自動車メーカーはVWを初めとして、政府や州などが一定の株式を保有する、半国営企業になっている事が多い。

こうする事で国が経営に関与して、勝手に工場を国外に移転したり、リストラが出来ないようになっています。

反面経営の柔軟性が失われ、政府と企業が癒着したり、燃費や排ガス検査で「手抜き」の原因にもなりました。

フランス政府のルノー国営化

フランス政府の株式比率は従来8.9%で経営に一定の影響を与えるに止まっていたが、最近14%に株を買いまして、従って28%の議決権になります。

仏政府がルノーへの関与を強め、事実上の国営企業にしたい理由は、近年の経営悪化にあります。

日産は着々と販売を拡大した一方でルノーの業績はは冴えず、ルノー工場で日産車を製造している始末です。

業績から言えば既に日産が親会社の規模でルノーが子会社規模なのだが、実際の株式はルノーが握っています。

という事はルノーの株式を少し購入するだけで、世界4位850万台の巨大企業を支配できるのにフランス人は気づいた。

日産の工場をフランスにバンバン建てて本社もフランスに移転する事だって、その気になれば可能かも知れません。

外国政府が日本の上場企業を事実上買収するような事が、果たして日本の法律に違反しないのか、違法だという指摘もされています。

現在でも日産はルノーの傘下にあり、新型車の開発や経営方針はフランスが決めているし、社長はフランス人です。

日本の自動車メーカーは中国から手を引いているが、日産だけが巨額投資をしたのは、明らかにルノーの指示でした。

日産の役員はフランス人に代わり(日本人も居る)、日産からルノーには莫大な金が支払われているとされる。

ルノーが国営企業になれば、フランス政府が日産の経営者になる訳で、中国共産党がトヨタを買収するのと同じです。

中国は民間企業であっても共産党が役員を送り込むなどして支配しており、全企業の8割以上は事実上の国営です。

日産の社長が「モデルチェンジしたい」と頼んだところ、組合長が「残業が増えるから駄目」と言った逸話が残っている。
トヨタは4年でモデルチェンジしたが、2台目マーチは10年もモデルチェンジできなかった。
march_08l
引用:http://www.wald-licht.com/~oldcar/gazou/92_n_march/march_08l.jpg

日産創業から買収まで

日産は日本で最初に自動車生産を始めた企業の一つで、戦前は自動車だけでなく多くの事業を展開する巨大財閥でした。

例えば「日立グループ」なども日産の一部だったが、敗戦後にGHQが解体しました。

第一次大戦の前後に鉄鋼や鋳造の会社を作ったのが始まりで、その後次々に合併を繰り返して、日本最大の財閥になった。

1911年に「快進社」を設立し1914年には早くもV型2気筒10馬力の国産車「脱兎号(タット号)」を発表しました。

1930年に「DATSON(ダットサン)」を設立し1934年に「日産自動車」と改名しました。

戦前にまともな乗用車を作れるのは日産だけで、公用車や権力者、金持ち用の高級車として使用されました。

当然日産は軍用車も生産していましたが、これが原因で「日本軍に協力した」とされ、戦後GHQから自動車生産を禁止されました。

後に日産の自動車生産は条件付で解禁されたが、GHQに優遇されたトヨタと、様々な妨害を受けた日産には決定的な差が付きました。

トヨタが戦後急成長した最大の理由は自らの努力ではなく、GHQがライバルを潰したからでした。

この日産叩きは戦後長い間日産を苦しめ、例えばGHQは労働組合を組織させ強大な権力を持たせた。

日産は組合の許可を得ないとモデルチェンジが出来ないという独自ルールを強要され、悉くトヨタに遅れを取った。

1990年代にバブルが崩壊すると、この歪んだ組織制度は崩壊し、倒産寸前に追い込まれ、買い取ったのがルノーでした。

末期の日産では社長が労働組合にモデルチェンジを提案したところ、工場長や組合長が「人権侵害だから許可しない」と却下したそうです。

モデルチェンジをすれば配置転換や残業が発生し、労働者の負担が増すという事でした。

コメント

  1. renko より:

    そう言えば…
    むかーし、むかし関連会社に勤めていた頃
    自動的に自動車労連の組合員に加入させられ
    春闘や選挙が近づくと赤い鉢巻きをしめて
    訳も分からず気勢をあげていたのを急に思い出しました
    日産に戦前からのそんな事情があったことを初めて知り驚きましたが
    当時の光景や熱気を懐かしく思い出しました
    あの頃の日産は確かに日本の企業でした
    でも、いまは違うんですね(寂

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