引用:http://www.jarba1.com/bogu032-3.jpg
パチンコマルハンの会長として知られる韓昌祐は、戦前の朝鮮南部で、日本人として生まれました。
日本の敗戦で朝鮮は米国の植民地になり、15歳で日本の兄の下へ渡り、兄の事業を引き継いで成功しました。
マルハングループの創業者で知られる韓昌祐(ハン・チャンウ)(かん しょうゆう)は1931年に朝鮮の農村で生まれました。
韓国慶尚南道泗川郡三千浦という場所で、現在は合併して慶尚南道泗川市という名前になっています。
日韓併合は1910年なので韓昌祐は日本人として誕生し、西原昌佑という名前も持っています。
朝鮮半島は第二次大戦の戦場にならず、日本帝国は朝鮮人を(例外を除き)徴兵せず、労働者としての徴用もほとんどしませんでした。
朝鮮人にとって第二次大戦は「他人事」であり、日本の敗戦と独立は棚からボタモチで、むしろ困った事でした。
突然日本という国が消滅し、金無し人無し何も無しで、放り出される破目になってしまいました。
そこへドヤドヤと乗り込んできたのが占領米軍で、朝鮮人はただの侵略者と見做し猛反発しました。
15歳の韓昌祐少年はそんな祖国を見て嫌になったのか、兄の居る日本に行けるうちに渡ろうと思い立った。
朝鮮半島南部の港からは最強を誇った日本軍が続々と撤退し、後に残されたのは烏合の衆である朝鮮人と、占領米軍でした。
朝鮮に残った方が良いのか、日本に渡ったほうが良いのか、一種の賭けであり結果を見ると日本に行って正解でした。
1945年10月に三千浦の港から下関に向う船に密航し、来日を果たしたと本人は語っています。
兄は日本でレンガ積みの仕事をしていて、兄の招待を受けて渡航したが、終戦直後なので半島から日本へ引き上げる人は多く、紛れ込んだのでしょう。
1945年から1948年の韓国建国までの3年間、朝鮮人は日本国籍から外れ、半島へ帰るように日本政府の命令が出ていました。
朝鮮半島は米軍の占領下にあったが、激しい反米運動が巻き起こっていて、日本に残留した朝鮮人が50万人以上居ました。
1948年の韓国建国によって、日本に残った朝鮮人は不法滞在者となり、全員に聞き取り調査をして、自分の意思で日本に居るのを確認している。
1965年に日韓国交樹立し日韓基本条約が結ばれると、朝鮮人は在日韓国人と定義され、在日1世には永住権が認められる事になった。
日本は北朝鮮を承認していないので北朝鮮出身者でも在日韓国人です。
その後基本条約改定によって、在日韓国人2世にも永住権が与えられましたが、3世以降については今でも日韓基本条約で「不法滞在者」のままです。
韓昌祐少年が下関に着いた後、どこでどうしたのか判然としないが、おそらく兄の下に行き学校に通ったのだと思われる。
1948年、朝鮮奨学金を得て、大学入学資格検定(大検)を受けて法政大学専門部に入学したと書かれているので、朝鮮学校に通ったのかも知れない。
この後1950年に朝鮮戦争が勃発し、韓国国土の9割近くが一時北朝鮮に占領され、故郷の村も戦地になった。
1953年に法政大学を卒業したが就職先が無かったので、京都府峰山町(現・京丹後市)でパチンコ店を始めた兄の下に再び身を寄せた。
韓昌祐少年が出て行った頃の韓国、激しい反米闘争が展開されていた
引用:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fe/Anti-Trusteeship_Campaign.jpg/640px-Anti-Trusteeship_Campaign.jpg
つまりパチンコ店は兄の事業で、韓昌祐が始めた訳ではありませんでした。
パチンコの起源はアメリカのピンボールのようなゲーム台だと言われていて、場所が狭いので横型から縦型になったようです。
1920年代に夜店の遊戯としてパチンコ台が始まり、戦後は店舗型のパチンコ店が名古屋から全国に広まっていきました。
1947年に風営法が施行され、パチンコが法的に認められるとさらにパチンコ店が増え、韓昌祐少年が京都に行った1953年はまさに開業ブームでした。
当時のパチンコ店は今のように本格的ではなく、狭い店に20台ほどの台を置くだけで商売を始められました。
1967年まで兄の手伝いをした後、独立してボーリング場を初め、60億円の借金を抱えた。
1972年の60億円は現在の1200億円だったが、1980年代までには完済したようなので、当時のパチンコ業がどれほど儲かったのかが窺い知れる。
現在の個人資産は1300億円と言われていて、1999年には勲三等瑞宝章を叙勲している。
ところで日本政府が特別永住者資格を与えている在日韓国人は、日韓基本条約で定義された韓国人だけです。
永住資格がある韓国人は「戦前から日本に滞在していた韓国人」だけで、戦後に入国した人は対象外です。
1945年10月22日に入国した韓昌祐少年は、2002年に日本に帰化するまで57年間も、滞在していました。
終戦後に入国した人は永住許可の対象外なので、本来の資格は無かったたという指摘もされています。