アメリカ軍は勝利を自らの手柄にするため終戦を遅らせ、2発の原爆を使用した。
引用:http://blog-imgs-82.fc2.com/h/i/s/history365days/10616593_828729970491689_8779173433003972912_n.jpg
広島・長崎の原子爆弾は、日本が降伏しなかったから投下したとされています。
だが少しずつ公開された資料からは、日本が降伏し、アメリカが拒否して原爆を投下した事実が示されている。
日米和平交渉
1945年、日本と米国の終戦交渉が秘密裏に行われていました。
日本側は1942年のミッドウェー海戦から敗戦を続けていて、戦争を終わらせる必要がありました。
アメリカ側はやる気充分だったが、特に軍は積極的で、日本を廃墟にするまで戦う気でした。
だが既にソ連軍の拡大は懸念材料になっていて、国務省など外交筋は早期終戦を望んでいた。
日本本土を戦場にして戦えば、ソ連が日本の半分を占領する事になり、ソ連を利する事になるからだった。
1945年7月にはまだソ連と日本は戦っていないが、既にルーズベルト大統領はヤルタ会談などでソ連参戦を要請していた。
ソ連は日本と戦う見返りとして日本の東半分、つまり名古屋から右側を要求していたとされている。
日本軍はソ連対日参戦の日を8月もしくは9月と予想し、それまでに対米戦を終了しなければならないと認識していた。
なぜなら米国だけに降伏すれば、国土は分割されず、いつかは再び独立できるが、ソ連と分割されれば永遠に復活出来ないからだった。
日本側は国土を分割しない事と憲法護持、天皇制を維持する事を条件として、米国に接触を試みました。
成功するかに見えた和平交渉
1945年4月、日本政府は最早敗戦は決定的であるとして、米国との終戦交渉に着手するのを決定しました。
このとき大本営の数人だけで極秘の決定がなされたが、ソ連に仲介を依頼する事になっていました。
同時に別案として、スイスやバチカンなど中立国で、米国と直接交渉をする事も決められました。
日本は欧州の中立国スイスに公使館を持っていて、米国など連合国側の大使と接触が可能でした。
真珠湾攻撃以降、連合国側との接触は途絶えていたが、一応こちらの方法も実施されました。
5月から7月に掛けて日本側から働きかけが行われ、応じたのがドイツ・イタリア軍との交渉も行ったアレン・ダレスでした。
7月には仲介者を通じて、日本側とアレンダレスの最初の交渉が行われ、ダレスは日本が提案した条件を呑んだとされている。
条件と言っても日本側が絶対に譲らないとしたのは、天皇制護持だけで、国土と憲法の方は譲歩の余地がかなりあった。
この時既に沖縄は米軍に占領されていたので、最悪沖縄が米国領になっても仕方が無い事だった。
日本側の出席者は政府や軍ではなく、表向き民間人の横浜正金銀行の銀行マンだったとされている。
仲介者は国際決済銀行(BIS)のペール・ヤコブソンで、これはヤコブソンの膨大なメモや資料で裏づけられています。
アレンダレスは7月15日に初めてヤコブソンと会談し、そこで日本の条件を受諾する姿勢を示したとされている。
この時日本側は8月の第一週から第二週、つまり直ぐにでも停戦したい旨を提案したとされています。
日本の降伏を無視したアメリカ軍
だがダレス1人が納得しても、アメリカ政府や大統領、外交筋や軍が了承するかは別で、特に軍は徹底的に日本を叩く気でした。
7月23日には、ダレスとヤコブソンの会談で、このルートで和平交渉を進めることを確認したが、8月に入ると事態が大きく動いた。
8月6日に広島原爆投下、8月8日にソ連が対日宣戦布告、8月9日にシベリアで日本軍とソ連軍が激突、同8月9日に長崎原爆が投下されました。
これには裏があり、米軍はダレスの交渉が成功しそうだと知っており、勝手に合意する前に総攻撃を掛けたのだった。
もし米軍が最後のとどめを刺さないまま戦争が終われば、戦争の最大の功労者は外交官だった事になる。
だがドイツを占領したように日本を壊滅させ、占領する事で戦争が終われば、手柄は軍のものになります。
ダレスの終戦交渉が頓挫したのは、米軍上層部が1945年12月まで戦争を続けるとして、日本の降伏を突っぱねたからとされている。
この時米軍は日本に10発の原子爆弾を投下する予定で、生産した爆弾や爆撃機を「消費」しなければならなくなっていた。
おかしな話だが、兵器というものも一度生産したらどこかで消費しないと余ってしまい、誰かが責任を取らされる。
1945年12月まで時間があれば、予定していた10発の原爆のかなりを使用できると考えた。
ダレスは戦略事務局(CIA)職員としてイタリア軍、ドイツ軍を降伏させ、日本との交渉もしていたから、日本が降伏を申し出たのは本国に伝わっていた。
昭和天皇は4月と5月の東京大空襲の時に、既に降伏の意思を固めていたのが、周囲の人々によって記されていました。
原爆投下後の8月14日に御前会議でポツダム宣言受諾を決定し、玉音放送を録音し、8月15日に放送した。
本来は総理大臣などが発表するべきだが、陸軍が本土決戦を主張した為、末端の兵士にまで直接伝える必要が生じた。
同時に全世界にラジオ放送することで、アメリカ軍が「降伏など受けていない」と絶対に言えないようにしたのでした。
米軍は8月13日には停戦の連絡を受け、日本軍は14日に戦闘をやめているが、15日の夜になっても爆撃を続けている。