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鄭周永 現代グループ創設者の生涯

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70年代初め、始めた事業全てが大成功し、巨大な財閥に成長していた
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引用:http://img.koreatimes.co.kr/www/news/img/special/1109081502.jpg

韓国最大の財閥、現代グループは通貨危機で打撃を受け、今は分離した自動車メーカーに名前が残るだけになった。

創始者の鄭周永は日本の敗戦、米軍進駐、朝鮮戦争、独裁政権と巧みに利用して大財閥を作り上げました。

貧農の子から旗揚げ

鄭周永(チョン・ジュヨン)は韓国最大の財閥だった現代グループを興し、一代で巨万の富を築きました。

日本では敵役として語られる事が多く、その生涯はあまり知られていません。

彼の生涯はなかなか面白く、ただの敵役で済ませるには惜しいものがあります。



まず鄭周永は1915年(大正4年)、日本に併合されていた朝鮮で、日本人として生まれました。

現在は北朝鮮になっている江原道通川郡という場所で、貧農の長男として生まれました。、

小学校(現在の中学校にあたる)を次席で卒業とあるので成績は優秀だったが、建設労務者を経てソウルの米屋に就職しました。

4年後の1938年に19歳で米商人として独立したが、日中戦争の影響で米が配給になり廃業した。

次に自動車部品修理業を始めたが、後で考えるとこれが現代財閥の起源であり、自動車または米屋が出発点だった。

自動車部品修理業も続かなかったが、戦後の1946年、ソウルで現代自動車工業社(自動車修理業)を新たに開業しました。

当時韓国という国は存在せず、日本が残して行った自動車と、進駐軍として乗り込んできたアメリカ軍向けのサービスだと思われます。

鄭周永の10年ほど前、日本では本田宗一郎が修理屋の丁稚から身を起こして、修理業を開業し、自動車メーカーになっていった。

鄭周永は本田とは違い、おそらく自動車の知識や技術はほとんど無かったのではないかと想像される。

短期間で韓国最大の財閥に成長

本田宗一郎が若い頃は修理工としてもチューナーとしてもトップクラスの腕前で、だからこそ自分で会社を作りました。

鄭周永は米屋、自動車、造船、土木、果ては政治家までやっているが、そのうちどれかで超一流だったとは聞いた事が無い。

鄭周永は自分でやるよりは、人を集めて仕事をさせて、上前を跳ねて儲けるのが得意だったようです。

1946年に自動車修理、1947年に土建屋をはじめ、時代的にアメリカ軍などの需要が多かったと想像されます。

鄭周永を大物に押し上げたのが1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争で、時代は彼のような「はったりの利く人物」を求めていました。

米軍に協力して建設工事を受注し、軍用車を修理し、権力に近づいて行きました。

朝鮮戦争が停戦し朴正煕の軍事独裁政権が始まると、また軍や政府に協力して大型予算を次々に受注しました。

基地、ダム、高速道路、原発、港湾などあらゆる物を建設し、1972年に韓国初の造船業に進出しました。

1973年にオイルショックが起き、空前の好景気に沸く中東諸国で建設工事を受注して大儲けをしています。

現代自動車、現代建設、現代重工業、現代鋼管などを次々に旗揚げし、全て成功させたが、これには日本企業の無償の協力がありました。

1970年代から80年代に掛けて日韓問題が発生し、アメリカは日本を悪者にして、一方的に韓国に加担しました。

日本とアメリカには日本の輸出攻勢で貿易戦争が勃発しており、アメリカは日本に打撃を与える為に、韓国を利用したのでした。

優れた技能を持っていたわけではなく、親分肌で人を使うタイプだったようだ
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引用:http://img.koreatimes.co.kr/upload/news/110307A5-6.jpg


アジア通貨危機で現代財閥は消滅

漁夫の利を得たのが韓国で、教科書問題だの閣僚の発言だの、何を言ってもアメリカが味方するので日本は謝罪し、お金を払った上に技術を無償で供与しました。

これで最大の恩恵を受けたのが現代グループで、造船も自動車も、日本が無償で工場や造船所まで作り、技術指導までしました。

おかげで現代グループはあっというまに日本を脅かす技術を身に付け、価格の安さで日本から市場を奪いました。

アメリカの狙いは日本に打撃を与える事だったので、狙い通りであり、後の事は知った事ではなかった。

こうして現代グループは1990年代に全盛期を迎えたが、同時に急坂を転げるように転落して行きました。

鄭周永は何かに精通したり打ち込むタイプではなかったため、さらに権勢を得ようと1992年に大統領選挙に出馬した。

だがこの選挙で対抗の金泳三が当選し、現代グループは政府の敵になってしまいました。

創業以来、時の権力に協力したのが現代グループだったが、鄭周永が大統領になろうとした為に、道を踏み外したのでした。

その後も鄭周永は政治や外交に口を出し、北朝鮮事業に巨額投資をして、結局大損失を被ったとされています。

90年代後半になると鄭周永は衰え、息子達は対立してそれぞれが現代グループを離れて行きました。

1998年のアジア通貨危機で現代グループは大打撃を受け、鄭周永は2001年3月に亡くなっています。

後継者の5男はグループを崩壊させ、現在残っているのはエレベータと百貨店のみという寂しさです。

現代自動車は世界5位の自動車メーカーになったがグループを離れており、重工は赤字で存続が危ぶまれている。

全盛期から僅か20年で韓国最大の財閥はバラバラになり、今は見る影もなくなりました。

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