桶狭間がどこだったのかは、今も分かっていない
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引用:愛知Tabi Magazine https://i0.wp.com/find-travel.cdn-dena.com/picture/articlebody/48179



信長の軍拡戦略

織田信長が日本統一を始めるきっかけになった桶狭間の合戦は、少数の織田軍が多数の今川軍を破った戦いとして有名です。

だが最近の研究では、むしろ織田軍のほうが数が多く、最初から優勢だったのではないかと言われています。

織田信長は生涯を通じて軍事力、特に兵力と武器にこだわり、徹底して数の優位を得ようとしました。

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その異常さは同じく戦国最強と言われた上杉謙信と比べると、非常に際立っているのが分かります。

上杉謙信の全盛期と、信長が畿内を統一したころの石高はそれほど違わないが、両者が動員した兵力には10倍近い差がありました。

謙信は自らを神の生まれ変わりと称し、敵より少数でも絶対に勝つと豪語していました。


信長は国力と兵力の比較では後に日本統一を成し遂げた、豊臣秀吉や徳川家康と比べても、際立って多いのです。

正史では桶狭間の兵力は今川4万5千人、織田2千人と書かれているが、これは現実の数字と大きく食い違っています。

昔の人は(今も)勝ったほうは自分が劣勢で敵が強大だったと言いたがり、自分の勇敢さや有能さを誇張していた。


当時は石高という単位で最大限養える人口を表し、おおまかに言って石高=人口と考えられていた。(石高と人口の関係は時代によって変わる)

桶狭間の1560年にはまだ石高の検査が行われていないが、後の秀吉の時代に今川の領地約70万石と判明している。

同様に織田の領地だった尾張は57万石で、たいした違いではありませんでした。


ただ織田が尾張を統一したのは桶狭間の前年なので、定説では織田軍の兵力は非常に少なかったとされています。



織田軍のほうが最初から優勢だった

戦国時代の一般的な兵力推測方法として、1万石あたり250人という公式がよく使われています。

仮に尾張は統一途中として半分だとすると、兵力7125人だった事になります。

今川は70万石なので兵力1万7500人で、正史は大幅に誇張されている事になります。


さらに今川は自国の外に出兵するので全兵力ではなく半分か最低でも3分の1は領内に残しておいた筈でした。

半分を守備隊に残したら今川は8750人、3分の1を残したら1万1700人で尾張に出兵した事になります。

さらに信長はわざと防御を手薄にして、今川軍が価値のない支城を攻め落とすようにし、今川軍は分散していきました。


今川の大将である今川義元は織田軍は弱いと見て自ら大高城に向けて前進したが、分散したため兵力はさらに半分ほどに減っていたと推測できる。

すると今川義元は兵力4000人からせいぜい5000人ほどで、織田軍も清洲城周辺に同じ程度の兵力が存在した筈でした。

『桶狭間』がどこだったのか分かっていないが、分からないくらい狭い場所だったというのは想像できる。


山中で今川軍は前後に長く伸びてしまい、今川義元は少し広い空間だっただろう桶狭間で陣を整えたか休息を取っていた。

定説では織田家の伝記などを元に、信長が馬にまたがり少数で奇襲攻撃をかけたとされているが、どうも奇襲ではなかったようです。

織田軍は正面から猛攻撃をかけ、勢いに圧倒される今川軍は後方に押され、細い道で後ろがつかえて逃げ場がなくなった今川義元は討ち取られた。


これは織田の兵力を少なく見積もった場合で、信長のその後の軍拡戦略を見ると、石高にくらべて兵力が異常に多かった。

この点を考慮に入れると最初から織田軍のほうが強大で優勢だった可能性が高く、戦争そのものも織田が今川を挑発して始まっていました。

有能だが貴族的で実戦に向かない今川義元を、信長が挑発して誘い込み、まんまと討ち取ったという印象を受けます。