ヘンリー・フォード1世(右)は自分以外の人間を無能扱いし、特に息子のエドセル(左)を虐めの対象にしていた
henry-ford-edsel-ford_6b36887c-3f7c-11e7-a718-97a052f84fc6
引用:http://www.hindustantimes.com/rf/image_size_960x540/HT/p2/2017/05/23/Pictures/henry-ford-edsel-ford_6b36887c-3f7c-11e7-a718-97a052f84fc6.jpg



若き優れた指導者

優れた指導者には若い頃、優れた指導者だった人と、年取って優れた指導者になる人の2種類が居る。

一生涯優れた指導者なら申し分ないが、そのような人はまず現れません。

フォード創業者のヘンリー・フォード1世は若き指導者の典型で、新しい時代を切り開きました。
スポンサー リンク

フォード1世がなくなってから、良く在る事だが故人の悪口を言うのは憚られるようになり、偉大な人物としてのみ歴史に残っている。

だが天才技術者が経営者になり、会社が大成功を収めた瞬間から、周囲に害悪を撒き散らすようになっていた。

1863年に農場の子供として生まれ、農場を継ぐのを嫌って16歳でデトロイトに出て、機械技術者としていくつもの会社で働いた。


電球を発明したエジソンの会社でも働き、当時としては破格の給料を貰い、自動車生産のアイディアを話したところエジソンの賛同を得た。

それからいくつかの自動車会社を興しては潰し、1903年40歳でフォードの前身になるフォード・モーター・カンパニーが設立された。

1908年10月に世界初の量産自動車、T型フォードを発売し、当時もっとも高性能で最も安い自動車として大成功を収めた。


他のメーカーが金持ち相手の高級車だったのに対し、フォードは「農民が買える自動車」を目指して低価格化を進めた。

また自動車生産は労働者を豊かにしなくてはならないと言って、工場労働者に破格の高額給料を支給した。

それを可能にしたのはフォードが考案した分業による大量生産で、熟練職人が10日以上掛けていた工程を、素人が数時間で出来るようにした。



新しい時代に馴染めなかったフォード

こうしてフォード1世は50歳までに全米でもっとも優れた指導者、最大の富豪になったが、称賛されたのはここまでだった。

1916年にはフォードの工場労働者は働いた給料で自動車を買えるようになっていたが、フォード1世自身がこうした「資本主義」に適応できなかった。

彼は次第に労働者や会社の重役、技術者などを憎むようになり、自身の作品であるT型フォードだけを愛するようになった。


T型フォードは1908年に登場してから1927年に販売終了するまで、改良もモデルチェンジもされなかった。

エンジンとか発電機とかサスペンションとか、何であれヘンリー・フォード1世が作ったものを変更する事は許されなかった。

改良を加えたT型フォードをフォード1世に見せた重役や技術者は、例え創業時からの盟友であっても解雇された。


解雇の仕方も普通ではなく、フォード1世は会社の中で門番とか警備員だけを信頼し、「腕っ節」の良いゴロツキを周囲に配置した。

ある日創業以来の功労者であるクーリックという技術者が、守衛に呼ばれてT型フォードのステップに乗ると、守衛は車を走らせて門の外に放り出した。

それがフォード1世の解雇のやり方で、荷物を取りに入ることも許されず、幹部であっても人間扱いしなかった。


工場労働者にたいしては「機械のほうがましだ」と言って限界まで働かせるようになり、労働条件はどんどん悪くなっていった。

ある年は労働者1人を雇うのに10倍の数を雇ったと記録されていて、10人中9人は定着せずやめていった。

1929年にアメリカは大恐慌に見舞われてフォード社も打撃を受けたが、フォード1世は「不況がもっと長く続けば良い」と発言した。



誰とも意思疎通できなくなった

不況が短すぎて「あの怠け者の労働者どもが心を入れ替えないから」だと言うのだった。

フォードの工場内ではフォード1世お気に入りの守衛たちが巡回し、「怠け者ども」を殴りつけて働かせる仕事をしていた。

当時のアメリカではまだ、労働者を殴って働かせるのは普通の事で、文句を言ってくればまた殴るだけだった。


フォードの工場はわずか数年で、全米でもっとも評判のいい工場から、全米最悪の労働条件になっていた。

フォード1世は自社の労働者を「くずども」とか「うすのろども」「怠け者ども」と呼び、重役や幹部であっても同じだった。

フォード社の中でただ1人フォード1世に意見を言っても解雇されなかったのが息子のエドセル・フォードだったが、「ダメ人間」呼ばわりされていた。


フォード1世のやり方は陰湿で、ライバル同士を争わせ、どちらかが絶望したり敗者になるのを見て「くずども」を眺めては楽しんだ。

息子に対しても同じで、エドセルに新しいプロジェクトを任せて、希望に満ちて取り組むのを眺めた後で、それを取り上げた。

そうして息子や有能な技術者が絶望するのを見ては、「くずども」が落胆するのを笑うのであった。


ライバルのGMが登場し6気筒エンジンとか新型サスペンション、新型変速機などを次々に実用化したが、フォード1世は絶対に許さなかった。

あるとき息子は父に6気筒エンジンを採用するよう説得したが、フォード1世は素人に説明するように「エンジンというものは4気筒でなくては機能しない」と話して聞かせた。

フォード1世が言わんとしたのは、お前は何も分かっていない赤ちゃんなのだ、という事であった。



家族にも憎まれた晩年

それでも息子達はとても熱心なので、6気筒エンジンの開発を許す事にし、エドセルらは心血を注いで新型エンジンを完成させた。

次にフォード1世は息子と技術者たちが開発した6気筒エンジンをベルトコンベヤに乗せ、スクラップとして潰させた。

こういう事がフォード1世のやり方だったので、有能で向上心のある人は全員フォードからGMに移っていった。


60歳になったヘンリー・フォード1世と意思疎通できる人間は、息子を含めて1人も居なかったが、それでいてフォード社の独裁者で在り続けた。

フォード1世が特に嫌ったのが会社の経理担当者で「あんなものは労働ではない」「労働とは汗水流して働くものだ」が口癖だった。

フォード社では社長の妨害によって経理の仕事ができないので、伝票を1枚1枚めくっては仕分けするという、旧来の方式を「社長に隠れて」こっそり行っていた。


年に何度か経理部門の部屋にフォード1世と守衛達が入っていて、「この”クズども”を今すぐ全員解雇しろ」と怒鳴るのが恒例行事だった。

こんな具合だったのでフォード社では今会社がどうなっているのか、幹部ですら詳細を把握していなかった。

フォード社を救ったのは第一次大戦と第二次大戦で、デタラメ経営だったのに軍需によって膨大な利益を得る事が出来た。


フォード1世は第二次世界大戦を信じようとせず、誰かの捏造だと信じていたらしい。

息子のエドセルは父による虐めがもとで、1943年に父より早くなくなったが、その時フォード1世は「エドセルを虐めた奴は誰だ」と怒り狂ったという。

もはやすべてが狂っていて、重役達は早くフォード1世がこの世を去ってほしいと願うだけだった。


1945年に家族の反乱によって社長の座を追われ、1947年に83歳でなくなった。

50歳頃までは優れた経営者であり優れた技術者だったが、後半30年はただただ他人を罵って、足を引っ張っただけだった。

そして亡くなった事によって最後の醜い30年間は無かったことになり、美しかった50年間だけが伝記などに書き残された。