天安門事件の翌日に広場近くで撮影された戦車男
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引用:http://i.huffpost.com/gen/4374898/images/o-AVENUE-OF-ETERNAL-PEACE-IN-BEIJING-JUNE-5-1989-facebook.jpg



天安門事件とは

1989年6月4日、民主化を求めて天安門広場を占拠して「民主村」を作っていた学生らを、人民解放軍は装甲車で踏み潰し銃撃した。

これが天安門事件の真相で、様々な立場の人が隠そうとしたり誇張しようとしたりするが、これ以上でも以下でもない。

そのとき「民主村」に居た学生らは重量十数トンのキャタピラに踏まれて、文字通りぺちゃんこになった。

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犠牲者の数は数十人とも1000人以上とも言われるが不明で、数日後には跡形もなく清掃された。

日本では「派遣村」や「反原発村」「反安保村」で反政府活動があったが、学生らはそれと同じノリで、政府を転覆させるほどの暴動ではなかった。

6月4日まで軍や治安部隊と学生らは広場で対峙しており、馴れ合いというか一種の信頼関係が生まれつつあった。


ここまではやるがこれ以上はやらないというような予定調和で、学生が兵士に食料を差し出すような場面が見られたという。

事態が急変したのは6月3日の深夜で、闇に紛れて人民解放軍のトラックや兵員輸送車が広場周辺を取り囲み、不穏な気配が漂った。

解放軍のトラックの一部は学生を支援する民衆によって焼き討ちされ防止されたが、これは学生側リーダーによる挑発だった。


学生側リーダーは事件後に「軍によって民衆を攻撃させれば、民衆は蜂起すると考えた」と話し最初から多くの学生を捨て石にする気だった。

解放軍による総攻撃が何時に始まったのか正確には分かっていないが、夜明け前から明け方だったと考えられている。

夜明けと同時に攻撃は奇襲の基本で、敵は寝ていて明るく、攻撃には有利になります。


延々と続く戦車部隊の先頭に人物が見える
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引用:http://img.epochtimes.jp/i/2016/06/06/t_cw3nz26pr2k9fgekqlmf.jpg

突入前の天安門広場、デモは数週間に及び学生らは疲弊し自然に減っていた。
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引用:http://i.huffpost.com/gen/1833616/original.jpg



戦車男は生きていた

天安門事件後に各国は中国を非難し経済制裁したが、いち早く制裁を解除し「天安門事件はなかった」と言ったのが恥ずかしながら日本政府だった。

NHKなどは1993年にクローズアップ現代という有名なやらせ番組で、「実はなかったのだ」と大嘘を全国に報道した。

当時の日本と自民党は左翼政治家の全盛期で、天皇を訪中させて中国に謝罪させ、天安門事件はなかったと世界にふれ回った。


天安門事件翌日の6月5日、天安門広場に通じる大通りを戦車数十両が通過しようとしたとき、一人の青年が戦車の前に立ち戦車は止まった。

こんな時、上官の命令があれば踏み潰すが、命令が無ければ戦車は停止する。

この場面を撮影した写真が全世界に配信され、天安門事件で最も有名な写真になった。


青年は停止した戦車の上に上り、兵士と何か話した後で戦車から降り、何度か通行を邪魔した跡で連行され、以来行方不明になった。

撮影したのはAP通信とロイターのカメラマンで、AP通信の写真が特に有名になった。

それから28年が経った2017年7月、彼の名前は張為民で当時24歳、現在も天津の刑務所で服役していると香港紙が報道した。


張為民と同じ刑務所に服役していた男が本人から聞いた話という事で、信憑性はもう一つという所です。

香港紙によると2年前に仮釈放されたが再び収監され、今後また釈放される可能性があるという。

事件から28年が経ったが学生リーダーが期待した民衆の蜂起はなく、中国共産党は昔のまま居座っている。