纒向勝山古墳は西暦210年頃で卑弥呼の父とか、初期の天皇の墓などと言われている
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前方後円墳の起源
天皇あるいは日本国家がいつから始まったのかは、西暦500年くらいでぼやけてしまい、分からなくなっている。
日本の起源を示す物的証拠として、「天皇」と「ヤマト国家」の2つを辿ると、ほぼ同じ時代に痕跡が消えてしまう。
「天皇」の痕跡は前方後円墳によって遡れるが、実在が確認されているのは第10代崇神天皇からで、それまでの9人は分かっていない。
また天皇陵の所在が分かっているのも第10代崇神天皇からで、以降第30代敏達天皇までずっと前方後円墳でした。
最初の前方後円墳は箸墓古墳の少し前とされていて、箸墓古墳はその規模から当時の最高権力者の墓と推測されている。
年代としては箸墓古墳は西暦280年台で、第10代崇神天皇は西暦300年ごろから320年ごろだったとする説が提示されている。
最古の前方後円墳は奈良県桜井市の纒向勝山古墳で、木材から西暦210年頃より前だったと推測されている。
天皇家の墓である前方後円墳の物的痕跡は、西暦200年ごろを境にプッツリと途絶えてしまう。
第10代崇神天皇は西暦300年ごろだったので、空から降ってきたのでないとすると、その前に数世代の天皇や権力者が居たはずでした。
すると崇神天皇以前の9世代で100年間前後というのは、天皇の平均在位期間から見て理に叶っている。
過去124代の平均在位期間は14年ほどで、年代が古くなるほど在位期間が短い傾向があるので、初期には10年程度だったかもしれない。
天皇陵などの物的な痕跡からは、天皇の起源は西暦200年ごろで、これより古い証拠は発見されていない。
ヤマト国家の起源は西暦200年頃
天皇とほぼ一体のものである「ヤマト国家」については魏志倭人伝の記録が非常に有名です。
邪馬台国については諸説あるが、ヤマト国家に繋がる勢力か、同一の国家、あるいは最大の国家だったと考えられている。
魏志倭人伝は280年から297年に書かれた歴史書で、当然書いたときよりも古い出来事を記録してあります。
魏志倭人伝によると、倭国は70年から80年間男子の王だったが、倭国大乱を経て女王卑弥呼のもとに再び統一された。
卑弥呼は238年、魏に使者を送り親魏倭王の称号を与えられたが、247年頃に卑弥呼が逝去したと書かれている。
これよりずっと前の西暦57年、後漢の光武帝が奴国に『漢委奴国王』の称号を贈り、金の印章が発見されている。
奴国はヤマト政権以前の九州の国で、おそらく倭国大乱かもっと前の時代の国と考えられている。
邪馬台国の卑弥呼が初期のヤマト政権の権力者だったとして、247年頃になくなったなら、箸墓古墳と最初の前方後円墳の中間の時代になる。
卑弥呼の墓が実在するなら、時代的に前方後円墳か、類似するかなり大型の墓でないとおかしい。
なお魏志倭人伝に書かれている「卑弥呼」「邪馬台」などは完全な当て字で、文字そのものには意味がないと考えられている。
当時の発音としては卑弥呼はヒミコ、邪馬台はヤマトまたはヒモトのようだったという説が提示されている。
卑弥呼にも父や母の権力者が居たはずで、この時代庶民が権力者になる事は無く、必ず有力な家系から次の権力者が出る。
卑弥呼の邪馬台国の起源もまた、西暦200年台を境に途絶え、日本に二つの有力な国家が存在したか、同一の国家だった可能性がある。