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ニコライ2世の最後 亡命を拒否して帝政復古に期待していた

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いつも姉に抱かれている息子のアレクセイは病弱で動かせないため、一家は脱出できなかった。


引用:https://learnodo-newtonic.com/wp-content/uploads/2015/03/Nicholas-II-Family-from-left-to-right-Olga-Maria-Nicholas-II-Alexandra-Anastasia-Alexei-and-Tatiana.jpg

ロシア脱出を拒否した皇帝

ニコライ2世はロシア革命が起きた1917年2月の後、3月7日に革命政府に拘束されたが、その前後に何度も逃げ出すチャンスがあった。

革命発生時にニコライ2世は第一次大戦を指揮するため前線に居り、妻と子供たちの皇帝一家は首都ペトログラード近郊の邸宅に居た。

軍司令官でもあるニコライ2世は、ひとまず不利な条件でも戦争を停止し、軍主力を首都に戻すべきだった。

だがニコライ2世は家族に会う事を最優先し、少数の側近を連れただけで、列車(当時最も早かった)で首都に向かった。

だが革命は鉄道沿線にも及んでおり、列車は途中で停止させられ、退位の文章に署名させられたうえに拘束されてしまった。

2月革命を起こしたのはニコライ2世が作った議会で、この時にはまだ皇帝が復活できる可能性もあった。

また軍や旧政府の人々には皇帝に忠実な人も居て、ロシアを脱出するのも不可能ではなかった。

だがニコライ2世は「ロシアを捨てる事はできない」と言い、また生来病弱な長男アレクセイが脱出に耐えられないのもあって脱出しなかった。

議会の臨時政府はニコライ一家を首都からトボリスクに移したのだが、これは皇帝一家を逃がそうとした可能性が高いと言われている。

というのは臨時政府はニコライ2世が作った議会であり、皇帝を退位させた後は国外に脱出してくれた方が、好都合だった。

トボリスクの守備隊は何度か交代しているが、ニコライ2世には好意的であり、脱出が可能な状態に置かれた。

この時もニコライはロシアを脱出する事に消極的で、まだ帝政復活や地位の回復に期待を持っていた。

トボリスクで臨時政府に軟禁されていた頃、まだのどかで脱出可能だった。
PY
引用:https://i.pinimg.com/736x/5e/4f/56/5e4f5604cafac0e8d922281d871c6394–russian-revolution-nicholas-dagosto.jpg

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ソヴェトが権力を握る

トボリスクの警備は緩く、守備隊は皇帝に好意的であり、1917年8月から11月までの3ヶ月間、臨時政府はニコライ一家に逃げて欲しいと考えていた。

国民の皇帝一家への怒りは凄まじく、処刑するよう圧力が掛けられていたが、臨時政府はあくまで法に基づいて新政府を作ろうとし板ばさみになっていた。

最も望ましい解決法は、皇帝一家がみっともなく国外逃亡する事で、もう臨時政府は皇帝に配慮する必要がなくなる。

革命の前半には皇帝と政府には話し合いが持たれ、臨時政府は皇帝を葬るつもりは持っていなかった。

ニコライ2世はロシア脱出というプランにはついに同意せず、10月革命によって臨時政府は倒され、レーニンのソヴィエトが権力を握った。

臨時政府は強硬なレーニンらが主導するソヴェト評議会に代わり、レーニンは皇帝を葬り去ることで、自分が皇帝になろうとした。

ロシア革命後にすぐソヴェト連邦ができたのではなく、ロシアの中にいくつもの政府があり、いくつものソヴェトが主導権争いをしていた。

社会主義革命を目指す赤軍に対して、非社会主義を目指す白軍が一時期、赤軍を倒すかのような勢いを示した。

ニコライ2世家族は白軍が自分たちを救出して、再び皇帝に返り咲くというような期待も抱いていた。

だが実際には白軍は共産主義には反対していたが、ニコライ2世を助けたり、皇帝に復帰させようとは考えていなかった。

白軍が目指したのは皇帝の居ない民主国家であり、圧制で国民の恨みを買っていた皇帝に、生きていてもらっては困るのでした。

白軍は公式には皇帝に近い立場であり、多くは旧帝国軍の将校や兵士だったので、皇帝を保護したら再び帝位に就けざるを得なくなる。

最後の数ヶ月を過ごしたエカテリンブルクのイパチェフ館、カメラを没収されたので一家の写真はない。


引用:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a4/Ipatiev_House_in_1918.jpg

レーニン皇帝の野望

そこで白軍はわざと皇帝一家が閉じ込められていたエカテリンブルクには進軍せず、ニコライが追放されるか葬られるのを待っていた。

レーニンのペトログラード・ソヴェトは自分が手を汚す危険を恐れ、監禁しているウラル・ソヴェトに勝手にやらせようとした。

というのは内戦で頻繁に支配者が交代している状況では、皇帝に手を下した者は白軍によって標的にされる恐れがあった。

1918年4月にエカテリンブルクに移された一家は「囚人」として扱われ、外出や散歩も禁止され、脱出は完全に不可能になった。

警備兵もかつての皇帝守備隊から旧農奴崩れのソヴェト軍に代わり、農奴たちは皇帝を心底憎んでいた。

臨時政府時代には兵士が邸宅に入ってくることはなかったが、1918年になると農奴兵が1階部分を占拠し、皇帝一家は2階に押し込められた。

扱いはどんどん酷くなり、皇女たちは部屋のドアを閉めるのを禁止されたり、兵士と共同トイレを使ったりした。

トイレに行くには兵士らの詰め所前を通らねばならず、兵士らが使ったトイレは汚れ切っているという具合だった。

最後には窓を開ける事が禁止され、外の景色が見えないように高い塀を作り、窓には板を打ち付けた。

囚人として最後の日々を送る

洗濯や風呂やシャワーを浴びるのも全て禁止、家の中や各自の部屋にも兵士らが歩き回るという状況だった。

ニコライ一家は避難するに当たって持てるだけの宝石を持ち込んだが、兵士らは荷物をあさっては盗んでいった。

ここに至ってニコライ2世はやっとロシアを脱出するべきだったと後悔するが、今はドアを開けるにも農奴兵の許可が必要であった。

最後の日である1918年7月17日、深夜の2時すぎに家族を起こし、「暴動で危険だから避難しろ」と言って全員を地下室に連れて行った。

小さな窓がある半地下室なのだが、周囲に音を聞かれないために、1階や2階ではなく地下室を選んだ。

刑を執行したボルシェビキたちは、白軍の報復をおそれて痕跡を隠し、残った宝石類も盗んでいった。

ニコライ2世を葬ったレーニンは自身が新たな皇帝になり、強権国家のソビエト連邦を作った。

皇帝を退位させた2月革命は、民主主義的な国家を作る目的だったが、世界最悪の恐怖国家になった。

ニコライ2世のロシアは皇帝の優柔不断さゆえに、世界で最も自由だっ
たのだが、10年後には世界で最も自由がない国になっていた。

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