弥生化は一直線に進んだのではなく中間でせき止められた
東日本では縄文人が多かったからだと考えられる
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引用:http://bbs.jinruisi.net/blog/wp-content/uploads/2017/09/img_1.jpg?934737



縄文人と弥生人の共存期間

日本の歴史でもっとも謎に包まれているのは弥生時代のおよそ1千年間で、この前と後であらゆる事が変化しました。

狩猟採集で遊牧していた日本人は定住するようになり、大規模な農耕を初めて文字を使い国を作った。

弥生人の基になる渡来人が最初の集落を北九州につくったのは紀元前1千年ほど前で、渡来人は縄文人と融合して弥生人になった。

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約800年以上をかけて九州から青森まで弥生化が進み、西暦100年ごろには既に最初の古墳が作られて古墳時代が始まっている。

つまり日本列島全体の弥生時代は実質的に300年ほどしかなく、しかも北海道以北と沖縄は最後まで弥生化しなかった。

1万年以上続いた縄文時代に比べるとあまりに短すぎ、始まったと同時に終わったような印象を受ける。


考古学的にはまず渡来人が九州に上陸し、環濠集落をつくり大規模農耕を始めて弥生時代の幕が開けられました。

縄文人の村が最大数十人に対し、弥生集落は最大1000人に達し、集団農業を行い軍隊や兵士まで存在した。

だが農業は土地の奪い合いになるため、弥生集落同士は敵対関係にあり、戦争が絶えなかった。


縄文時代の1万年で戦争でなくなった骨はほとんど見つかっていないのに、わずか数百年の弥生遺跡では無数に発見されています。

弥生集落は農業によって大きな集落を作ったが、それゆえに戦争が絶えず、疲弊していました。

弥生時代を通じてすべての弥生人が協力するとか、弥生人のリーダー、弥生国家などは存在しなかったと考えられています。


弥生時代末期に奈良県平野部で、突然巨大古墳や宮殿建設がはじまる
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引用:http://blog-imgs-68.fc2.com/p/i/c/picachu2003/0706-17.jpg



奈良県で古墳時代が始まった理由

むしろ少人数でバラバラの縄文人のほうがグループとしての協調性があり、全体の調整や話し合いが行われていた可能性が高い。

というのは縄文土器や石器加工のような技術は数十人の村人だけで継承発達できないので、技術交流や婚姻や代表者の会議などが行われた筈です。

戦闘能力では圧倒的に勝る弥生人だが、互いに対立していたため、縄文側が付け入る隙は十分にあった。


たとえばAという弥生グループが縄文側と敵対していたら、Aと対立するBやCと協力してAを牽制する事ができる。

弥生時代の前半までは総人口としては縄文人が多く、しかも弥生人は大阪以西、縄文人は関東以北に集中していた。

両勢力の中間地点は奈良県であり、弥生時代末期に突如として巨大な前方後円墳が大量に出現した。


最古の前方後円墳は年代が不正確だが西暦200年ごろ、もっと小規模な円墳などは西暦100年ごろから現れ始めた。

日本列島の大半が弥生化して300年くらい経過していて、多くの地域で集団農業が営まれていた。

縄文人の拠点だった関東も弥生人に入れ替わり、ドングリを拾うのではなく農業を行っていた。



対立がヤマト王権を必要とした

おそらく関東の縄文人は自らも農耕を行いながら、弥生人の移住を受け入れて、数百年の間に両者は融合した。

狩猟採集と違って大規模農耕は集団労働であり、はっきり言えば強制労働という面があった。

王や支配者がいて労働者を働かせ、収穫はみんなで分配するが、支配者の取り分が最も多い。


土地や水を巡る戦争が絶えなかったので、利害を調整する会議が開かれ、議長や全体をまとめる王も必要になります。

場所は代表者が集まりやすい列島の中心が良く、それはおそらく奈良県の平野部だった。

もし九州とか青森に代表者が集まるとしたら、交通に不便な反対側の人達からは、強い不満が出るでしょう。


仮に邪馬台国が九州にあったとしても、そこに日本中の人が集まったとは考えにくく、非常に不便です。

利害調整会議は不利益を受けるグループも出るので、反対者を押さえ込む力、すなわち軍事力も必要とされたでしょう。

反対者を従わせるには王が力を誇示する必要があり、それが巨大な前方後円墳や大陸風の宮殿、都市建設などでした。


田舎から出てきた代表者は巨大古墳や壮麗な宮殿を見て王の強大さを悟り、従うようになります。

とはいえこれらの出来事は文字のない時代に起きたので、こうした記録は存在していません。