古代で奇跡を起こす方法
平成元年(2019年)10月24日に皇居で「即位礼正殿の儀」が華々しく行われ、各国首脳らが出席した。
このニュースで目を引いたのは、正殿の儀が始まると雨があがり虹がかかったというものでした。
雨が上がるのも虹がかかるのも気象現象に過ぎないが、古代世界では奇跡と関連付けられた。
例えばキリストが十字架にかけられたときに偶然虹が掛かったら、奇跡として語り継がれたでしょう。
こうした奇跡の種明かしは気象予報や科学の知識を持っていれば、あらかじめ予想して奇跡を起こすことが出来る。
上杉謙信と武田信玄が戦った第四次川中島合戦では、夜明けとともに濃霧が立ち込めて双方相手が見えないまま混戦になった。
武田軍のほうが多勢だったが分散したうえ狭い道で乱戦になった結果、多くの武将を失う損害を出した。
もし上杉が濃霧を予想してあえて霧の中の戦いを仕掛けたなら、非常にすぐれた気象予報士が居た事になる。
古代の日本史で最大の気象事件は台風と地震、干ばつや豪雨で、豊作や凶作を占って対策を建てるのが権力者の役割だった。
天体観測も重要で中でも日食は太陽が隠れるという大事件で、世界各国で神話として語り継がれてきた。
日本神話ではアマテラスが天岩戸に隠れる故事が日食とされていて、大規模な火山噴火だという説もある。
仮に天岩戸事件が日食だとすると、正確な年や日付や場所までもわかってしまう。
アマテラスが岩戸に隠れたのは168年12月17日?
日本書紀や古事記の神話の多くは九州の出来事とされ、天皇の一族が九州から出て出雲を経て奈良に至り日本列島を収めるまでを記している。
こうした大きな流れを見ると天皇家やヤマト国家の起源は九州で、遺跡の年代からもそれは明らかです。
奈良県には西暦350年以降の遺跡が非常に多く、前方後円墳や陵墓もほとんどは4世紀後半以降です。
一方の九州には吉野ケ里遺跡を筆頭に弥生時代の遺跡が多く、奈良の前は九州が最先端地域でした。
すると記紀に書かれた神話の年代は遅くとも西暦350年以前で、早くとも九州に国家ができた西暦0年以降と考えられます。
この間に吉野ヶ里遺跡がある佐賀県で日食があったのは168年12月17日、308年11月30日の2回だけでした。
もし天岩戸が308年だとすると、奈良県に古墳がつくられ始めたのは300年年代中ごろなので、驚くほど短期間で九州から奈良に移動した事になる。
文字が無い古代世界には客観的な日時を表す方法がなく、日食のような天体現象は重要だったでしょう。
太陽が隠れた年というのは口頭で伝承しやすく、「何年前」というよりずっと正確に伝えられる。
神武東征はいつだったか
記紀に神話ではなく実在の人物として描かれているのは第10代崇神天皇からで、崇神天皇は300年代前半の人物とみられている。
ヤマト国家の成立がどのように行われたかは不明だが、バラバラだった日本列島が一つの国家にまとまる間には、強力な軍隊による征服があったと推測される。
年代を整理するとアマテラスが天岩戸に隠れたのが西暦168年、関係は不明だが邪馬台国の卑弥呼は西暦240年代だった。
奈良県の最初の大集落である纒向遺跡は200年代終盤からで、この頃までに九州の国家が奈良に進出していたのでしょう。
320年までに神話ではない崇神天皇が即位し、西暦350年頃から奈良県平野部で巨大古墳がドカドカ建設されるようになった。
九州から奈良への移動があったのは卑弥呼が亡くなった西暦250年以降、崇神天皇の320年頃までと推測できます。
この間に神武東征として記述される戦争があり、紀伊半島や近畿はヤマトの支配下となり、ヤマト国家の成立に至る。
特に卑弥呼没後の250年から奈良県纒向に古墳ができる300年頃までが、九州勢力による近畿征服期だった可能性が高い。