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神武天皇とアマテラスと卑弥呼はいつの出来事か

魏志倭人伝の卑弥呼の墓と完全に一致しているのは、福岡県久留米市の祇園山古墳だけ
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画像引用:祇園山古墳 古墳めぐりウォーキングhttp://kofunmeguriwalking.web.fc2.com/gionyama.html

邪馬台国の卑弥呼と神功皇后

日本の古代史は文字記録や長期間残る巨石建造物が無いため、多くが謎につつまれている。

はっきりと年代が特定できるようになったのは古事記や日本書紀が書かれた西暦700年からだが、もっと前から日本各地に国家が存在していた。

文字に残された最古の記録は魏志倭人伝が書かれた西暦280年で、邪馬台国と卑弥呼について書かれている。



卑弥呼は238年に初めて使者を送ってきたが247年頃に亡くなり、墓地がつくられ手厚く埋葬された。

魏の曹叡は使者を送ってきた卑弥呼に親魏倭王の位を与え、冊封に組み入れ魏の皇帝の家臣とした。

魏は邪馬台国に使者を送り、道程や日数や国の様子を記してあるがどこなのかは定まっていない。

邪馬台国はどこなのかですが、考古学的な発掘と魏志倭人伝の卑弥呼の墓が完全に一致しているのは、福岡県久留米市の祇園山古墳だけです。

もうひとつ有力とされる奈良県の箸墓古墳についてはあまりに巨大すぎて魏志倭人伝と一致せず、形や埋葬品も違うので候補になり得ない。

魏志倭人伝で邪馬台国と同じくらい重要なのは、奈良や出雲の国について一言も書かれていない点です。

西暦200年代には出雲や奈良でも古墳が発見されているが、少なくとも魏に使者は送らず関りも持たなかったようです。

次に中国史に倭国の王が登場するのは西暦414年に作られた広開土王碑で、倭国は新羅と百済を臣従させたと書かれている。

中国(宋)の宋書倭国伝には438年、倭王が「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」と名乗ったと書かれている。


邪馬台国もアマテラスも九州

古事記と日本書紀には神功皇后が三韓を征伐したと書かれていて、推定で西暦350年以降と見られている。

この時代の年代は不正確だが、神功皇后の孫の仁徳天皇崩御は西暦400年頃とされるので、2代遡ればそのあたりになります。

神功皇后は仲哀天皇の妻で夫が早世して子供の応神天皇が即位するまで、事実上の天皇の地位に就いた。

仲哀天皇は14代天皇なのでその前に13人存在し、天皇の在位期間は過去に遡るほど短く、現代に近いほど伸びる傾向がある。

初代の神武天皇即位は記紀の記述では紀元前660年になるが、実際には西暦200年代か300年代と考えられる。

奈良県に最初の巨大古墳が登場するのは西暦300年代中頃なので、巨大な墓をを築造できる権力者はそれまで日本に存在しなかった。

最初の9代の天皇はそれらしい陵墓が発見されておらず、少なくとも巨大古墳を作るような巨大な権力を持っていなかった。

すると西暦300年代半ばの巨大古墳は10代以降の天皇で、そこから100年ほど遡る200年代半ばが天皇の起源と推測できる。

200年代半ばは邪馬台国に女王卑弥呼が生きていた時代でもあり、この時代に大きな出来事があったと推測される。

卑弥呼、神武天皇ともう一人の謎の人物はアマテラスで、記紀ではすべての神々の上に立つ太陽神として描かれている。

アマテラスの最大のエピソードは天岩戸に隠れた事件で、日食とする説と火山噴火とする説がある。

日食だとすると卑弥呼の墓である福岡県の祇園山古墳付近では、168年12月17日、308年11月30日の2回だけでした。

約100年で日本列島から朝鮮南部まで征服

火山噴火から隠れたとすると阿蘇山が最有力で、やはり祇園山古墳付近で何度も噴火していました。

祇園山古墳と吉野ケ里遺跡は距離17キロほどで共に阿蘇山から近く、記紀に描かれた最初の日本の姿とも一致する。

記紀の「国生み」では イザナギとイザナミが泥んこの世界をかき混ぜて島を作り、淤能碁呂島(おのごろじま)と名付けた。

吉野ケ里遺跡がある筑後平野は2000年前は海で、筑後川は阿蘇山方面から火山灰や土砂を放出して海を埋めていきました。

ちょうど吉野ケ里が栄えていた頃に有明海は埋まっていき、まさに泥をかき混ぜて島ができるように埋め立てられていた。

イザナギとイザナミが泥をかき混ぜて島を作ったのはおそらくこれで、ヤマト王権の起源としてふさわしい。

時系列では西暦247年に邪馬台国の卑弥呼がなくなり、同時期にヤマト王権を作る勢力が九州から東征を開始した。

西暦300年代中頃には奈良県に巨大古墳を作るほどの王権が生まれ、神功皇后は三韓征伐をして新羅や高句麗を服従させた。

古代には現代的な国家や国境がないので、日本列島を征服したヤマト王権が連続して半島に攻め込んだのは、別に不自然ではない。

卑弥呼の死後わずか100年ほどで、九州の地方勢力だったヤマト王権は日本列島を征服し半島も支配下に置いた事になる。

これほど短期間で日本統一できた理由としては、神武天皇や日本武尊のような武将による大規模な戦争なくしては考えにくい。

逆にこのような出来事を推測しないと、ではどうやってたった100年で日本が統一されたのかを説明できません。

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