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飛鳥時代のトイレ事情から当時の大問題が分かる

日本のトイレは長くこういうものだったので、河川が汚染されるたびに遷都した
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画像引用:https://blog.goo.ne.jp/tudukimituo1028/e/4912e0dfde8d890bbecada6cc529f448 日本のトイレ事情について考える – 団塊オヤジの短編小説goo

藤原京のトイレ問題

奈良県の藤原京が日本の首都だった694年から710年の間に、外国人が住んでいたと思われるトイレ跡が発見された。

当時は珍しい水を流す水洗トイレ方式で、幅約1メートル、深さ約40センチの水路に水を引いて流していた。

遺構からは肉を不十分な加熱で食べて感染する有鉤(ゆうこう)・無(む)鉤(こう)条虫卵が発見された。


外国の使節が滞在した福岡や秋田の遺構でも同様の寄生虫が見つかっていて、ブタなどを食べる中国や半島の人が住んでいたと考えられる。

藤原京は飛鳥時代の都で、この後は奈良市の平城京に移転したので明日香村や橿原市周辺から離れている。

奈良盆地南側から北側の奈良市に移転した理由がトイレ問題とされていて、平城京から京都の平安京に移転した理由もトイレ問題だった。
さらに鎌倉幕府や徳川幕府が関東に都市をつくった理由も、トイレ問題が大きかったと言われている。

飛鳥時代のトイレは自然の川とか池に流していて、人口が増えるにつれて川や池は汚染されていった。

加えて飛鳥時代は水銀が様々な用途で使われていて、水銀汚染による病気も蔓延した。
飛鳥時代以前に頻繁に都を移した理由は河川などが汚染されたからで、場所を変える事で水質汚染を解消しようとした。

藤原京の人口は3万人、平城京の人口は10万人と人口が増え、水質汚染は限界を超え伝染病が蔓延した。

京都に移っても水質汚染は続き、これが魑魅魍魎や祟りや呪いなどの伝説に結びついてきました。

大阪奈良京都に渡来人が多く住んでいた

結局トイレ問題を解消したのは徳川幕府で、肥料として畑に撒くことでリサイクルして河川や池の汚染は少なくなった。

明日香村、橿原市、奈良市、京都市とだんだん大きな川が流れているが、これもトイレを流すために大きな川が必要だったからでした。

今から1000年ほど前まで大阪市はまだ海で、大阪城のあたりは半島で他は島として浮かんでいました。
中央区あたりの百済洲には百済の人が住み、浪速区あたりの新羅洲には新羅の労働者が住んでいました。

有名な仁徳天皇時代の記録には、仁徳天皇が半島労働者の視察を頻繁に行ったと書かれている。

一方今の鶴橋あたりには海岸線と市場があり、今も海産物などの市場として存続している。
もう少し陸地には百済の人々が住み肉食用のブタを飼っていて、猪飼野という地名が残っている。

仁徳天皇陵がある辺りから奈良県にむけて太子道があり、首都の飛鳥に大阪の港から徒歩で荷物を運んでいた。

大阪、奈良、京都には当時渡来人が多く住み、労働や農作業をし開拓した土地は彼らの農地になった。

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