仁徳天皇陵は最初もう一回り巨大で、建設には渡来人が従事した可能性が高い。
なぜそんなにも多くの渡来人が居たのでしょうか
画像引用:https://article.yahoo.co.jp/detail/09cd3638211a9d198aec4dab01812603b641902b 新技術導入の担い手となる応神天皇を支えた渡来人とは!?【日本史】 – Yahoo! JAPAN
歴史から消された最初の”女性天皇”
後継者問題で女性天皇の議論が時々出るが、過去の女性天皇についての調査や評価は非常にいい加減なものです。
特に最初期の女性天皇についてはその存在すら認めなかったり、調査する事すら禁止している場合がある。
最初の女性天皇が誰かは最初の天皇は誰かに関わり、そもそも最初の天皇が女性だった可能性がある。
それは魏志倭人伝に書かれている女王卑弥呼のことで、西暦238年以前に王位について247年に死去したと書かれている。
当時の状況として平民の女性が1代で王になるのはあり得ず、卑弥呼の親も王だったと考えられます。
すると最初の天皇ではなくなるが、最初の女性天皇であった可能性が残る。
邪馬台国は九州の王権であり、当時九州は日本の最先端地域で本州を圧倒し、後に東征で支配下に置いた奈良県でヤマトを建国した。
この流れは紀元前1000年前に渡来人が福岡に上陸し、水耕栽培を始めて王国をつくったところから始まる。
当時日本は縄文末期だったが気候変動で自然の食糧が取れなくなり、日本列島全土で飢餓状態になっていた。
そこに新しいテクノロジーである水耕農業を持った渡来人が現れ、九州の縄文人は渡来人に協力し合流した。
初期の渡来人は縄文人との取引で得た縄文土器を使用しており、協力的な関係だったのが分かっている。
渡来人と合流した縄文人は弥生人となり、九州でいち早く弥生国家が誕生し、それが魏志倭人伝に書かれた邪馬台国でした。
神功皇后が居ないと説明できない歴史
したがって当時九州の王国が日本の最先端であり、本土の国家が存在したとしてもようやく水耕農業が始まっところでした。
九州の王国は日本列島全体を支配下に置くべく東征を開始し、中心部の奈良に拠点を置いたのが神武天皇の神話です。
神武天皇が実際に存在したかは証明されておらず、数世代を1人の人物のストーリーにする事で、話を分かりやすくした可能性もある。
奈良に都を置いて百年ほど後の西暦300年台中頃、今も歴史を揺るがす神宮皇后の時代があった。
神功皇后の年代は文字記録がないのが不明だが、孫の仁徳天皇は300年台後半に生まれ、西暦427年に崩御したと言われている。
神功皇后は20代前半で子供の応神天皇を産んだ筈で、応神天皇の妻の仲姫命も20代前半で仁徳天皇を産んだ筈でした。
すると神功皇后はおよそ西暦350年頃に20代だった女性で、夫は仲哀天皇で自身も皇族というエリートでした。
仲哀天皇は即位9年後になくなり、息子の応神天皇は幼少だったので、神功皇后は息子を天皇に即位させる為奮迅する事になる。
神功皇后時代に熊襲など日本列島を征伐し、続いて半島に出兵して三韓征伐したと伝えられている。
三韓とは新羅、百済、高句麗で、神功皇后は半島南部に任那日本府を置いて間接的に半島を支配下に置いた。
三韓は日本に占領されたのではなく、中国皇帝に服属したのと同じように間接的支配を受け入れただけだと考えられる。
三韓征伐は日本の敗戦後に不都合だとされ、神功皇后と共になかった事になり歴史から抹消された。
だが「任那日本府」が存在したとされる地域では、その後続々と見間違えようも無い「前方後円墳」が発見されている。
神功皇后が存在せず三韓征伐がなかったとすると、当時日本に急増した渡来人も説明できなくなる。
九州から大阪、奈良にかけて神功皇后から仁徳天皇時代に渡来人が急増し、仁徳時代の記録によると大阪では新羅や百済の人々が港湾作業をしたり海岸部に居住し市場を開いていた。
神功皇后が存在したら話は簡単で、任那日本府を通じて自主的あるいは強制的に、半島から多くの人々が渡来してきた。
古墳時代の大規模の渡来は今も日本の人口構成に影響を与えているほどで、近畿地方では半島由来の地名も残されている。
神功皇后が存在せず三韓征伐もなかったなら、一体どうして古墳時代に大量の渡来人が突如日本に現れたのか、誰も説明できません