桶狭間は名前も無いような細い山道で、信長軍は裏道を通って横から奇襲したか、前方から押して混乱させたと思われる
こういう場所では戦うのは先頭の数人なので、兵力何万人でも関係ない
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正史がなく場所すら不明

中国では文字の使用と同時に正史の記録が始まり、政治姿勢などによらず公正に記録する事に価値があると考えられてきた

この記録のおかげで邪馬台国の卑弥呼や聖徳太子、小野妹子は記録に残ったが、もし中国側が記録しなかったら「そんな人は居なかった」となっていたかも知れない

朝鮮半島やモンゴルや日本など中国周辺の古代国家の記録はほとんど中国側の記録に頼っていて、遺跡の発掘などからかなり正確だと言われています

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日本には西暦500年代から600年代にかけて文字が使用され始め、古事記は712年に編纂されました

古事記以前にも伝承が記録されていたが火災で燃えたため、人々の記憶を頼りに書き直したとも言われています

古事記、日本書紀他あらゆる日本の記録に共通するのは年代や名前、地名がいい加減な事で読み物としての面白さを重視している


1600年前後の戦国時代になってもまだ公式な記録はなく、有名な合戦場の多くは場所すら分かっていない

最近学者の間で関ヶ原合戦の論争が勃発し、伝統派と革新派が互いの説を非難しあっていると日経新聞が報じています

伝統派は従来の小早川秀秋が突如寝返った説を取るのに対し、革新派は寝がえりは前日には判明していたと主張する


どちらも自説に都合が良い文書を証拠として引っ張り出すが、公式な正史はないので言ったもん勝ちの様相になっています

関ヶ原合戦で東軍を率いた徳川家康は少年期から百戦錬磨なのに対し、西軍の石田三成は事実上の初陣で最大の合戦を迎えた

免許取りたての初心者がレースに参加するようなもので、本来は経験豊富な他の武将を大将に建てるべきだが拒否されたようです


西軍は地形や最大兵力で有利ではあったが、経験豊富な家康に光成は翻弄されたと見て取れる

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場所すら分からない合戦場

戦国時代の日本には「事実を主観を交えずそのまま記録する」文化が無かったため、織田信長が今川義元を破った桶狭間は場所すら分かっていません

通説では信長は豪雨を利用して休憩中の義元を急襲したとされるが、実際には晴れていて義元は臨戦状態で油断していなかったという説が有力です

桶狭間は山地で1人ずつしか歩けないため義元の前後に居る護衛はせいぜい数人、そこを山道を通って横から攻撃したと考えられている


あるいは人1人しか通れない道だったため仮に信長軍が100人で義元軍が1万人だとしても先頭で戦うのは1対1、地形を熟知した信長軍が優勢になり、義元軍は退却しようとし混乱した

いずれにしても場所が分からず信頼できる記録がないので、今後も真実は解明されないでしょう

上杉謙信と武田信玄が何度も戦った川中島も場所が不明で、川中島のどこで戦ったのか定説はありません


当時の川中島は今とまったく異なる湿地帯で、ここも湿地の中に人1人が通れる道が縦横につながっていました

近所の寺の記録ではドラマの通り朝から濃い霧が出ていて、両軍は霧の中を行進していた所互いの先頭が敵に遭遇したようです

なので車係の陣や鶴翼の陣はありえず、妻女山も善光寺近くの山だと推測されています


謙信は4回目の合戦だけ敵陣深い妻女山に陣取ったとされているが、実際は他の3回と同じく善光寺近くの有利な山に布陣した筈です

ある朝濃い霧が出て謙信軍は霧の中を敵に接近し、おそらく信玄も霧を利用して攻撃しようと進軍し、両軍入り乱れる混戦になった

上杉側の記録では「謙信自ら馬上で槍を振るった」とあり武田の有名武将数人が討ち取られたので、一騎打ちは無かったとしても非常に近い位置まで接近した


記録は暇な人がするものなので江戸時代には詳細な記録が残るようになるが、戦国時代は皆忙しく文字を書く暇もなかった